シンポジウム「性表現の自由を考える」

 以下のテキストは、1994年1月23日に、文京区民センター(東京)で行われたシンポジウム「メイプルソープから性表現の自由を考える」の発言抄録です。
パネラー	土屋	勝(原告)
		山下 幸夫(原告訴訟代理人・弁護士)
		飯沢耕太郎(写真評論家)
司会		津田 頼子
司会
本日は、ロバート・メイプルソープの写真集を輸入禁制品とした税関の処分取り消しを求める裁判を通して、「性表現の自由」を考えていこうと思います。  まず、原告の土屋さんから、裁判に至るまでの経緯と、なぜ、めんどくさくて、しかもたとえ勝訴しても金銭的には報われない国家賠償訴訟を起こしたのか、動機をご説明ください。

土屋
92年の夏にアメリカのボストンに行ったとき、問題の写真集(ホイットニー美術館でのメイプルソープ回顧展カタログ)を購入し、他の本や資料などと一緒に国際宅配便のDHLで日本に送りました。
 ところが、これをDHLジャパンが開封検査し、中に猥褻物が入っていたということで任意放棄を求められました。これを拒否したのでDHLジャパンは税関に提出したわけです。  9月11日に「本件物件は輸入禁制品に該当する」との通知が東京税関から送られてきました。それに対し、行政不服審査法に基づき、11月2日に東京税関長宛に「異議申立書」を出しました。12月17日に異議申立は棄却され、明けて、93年1月14日に大蔵大臣に対して「審査請求」を出しました。これが、4月5日にまた棄却。
 なんで、任意放棄を拒否し、異議申立をして、審査請求まで出したかというと、私としてはこの本が(処分にあったのと同じ本を指して)輸入を禁止されるということ自体、非常にショッキングでした。どう考えても、ポルノではない。普通の性的な感情を持った人が見ても、猥褻だと思わないだろうし、しかも、実際、国内でも堂々と売られている。また、個人で所有することをどうして取り締まらなければならないのか。たしかに日本の刑法においては、猥褻物の頒布・販売は取り締まられているわけですけど、個人で所有することを禁じる法律はないのです。ところが、関税定率法だけが日本に持ち込むときだけ取り締まる。これは大きな矛盾です。
 幸い、弁護士の山下さんに興味を持っていただき、手弁当的な金額でやっていただけることになりまして、これは裁判をやっていこうという決心をしました。
 この先、もし、国側が負けた場合には、国は最高裁までもっていくだろうと言われているんですけど、それはつき合う覚悟でいます。

司会
原告側が負けた場合は?

土屋
やはり最高裁までやりたいと思います。

裁判の経過と争点

司会
この裁判はすでに始まっています。裁判の経過と争点を、原告側の弁護士の山下さんからお願いします。

山下
日本において税関の規制が争われた裁判は非常に少ない。戦後から判例を数えても、ほんとにわずかしかありません。とくに今から10年ぐらい前に、最高裁判所がいわゆるポルノ雑誌のような物についての税関の問題を取り上げて、「税関検査は検閲ではなく、税関の規制は憲法違反ではない」という判決を出しました。裁判所の中ではその判例によって、税関問題は終わったという感じはあります。したがって、税関問題の裁判はそんなに簡単ではないということがいえます。
 そのなかで、今回の裁判の特徴としては、メイプルソープという有名な写真家の写真集、しかもこれは美術展でのカタログが引っかかった。そういう例は今まであまりなかった。税関に関しては、従前はいわゆるポルノ的なものが多かったのですが、今回は芸術性がある作品の税関検閲の合憲性が問われているという意味では、珍しい裁判になるのではないかと思います。
 裁判のなかで、国側は基本的に、憲法は「猥褻な物」に関しては「表現の自由」を保障していないという前提に立ちながら、税関は、関税定率法という法律に則って、関税をかけるための手続きの一環として、輸入物の外形から判断して、こういうものを輸入禁制品にしているだけで、中身とか思想とかを判断しているのではない。したがって、表現行為の中身を判断しているのではないから、検閲ではなく、表現の自由の侵害もしていない。たまたまそういう過程で、そういうものが見つかったときに、それを禁制品として輸入を禁止しているだけである。そういう形式的な論理で、税関検査は憲法違反ではない、「表現の自由」を侵害するものではないという立論をしています。
 さらに、関税定率法では、「公安又は風俗を害すべき物品」という表現で、こういったものを禁止するとあるんですが、これに関しては、10年前の最高裁の判例では、まず、「公安」に関しては不明確であるということであまり意味はない。「風俗を害すべき物品」というのは「猥褻な物」と解釈すれば、この規定は明確であり、憲法違反ではない。不明確な法律は憲法違反になる可能性があるのですが、「猥褻な物」は一義的に明確であるとして、そのように読み変えて解釈をしています。「猥褻」とは何かというと、基本的に陰毛とか性器が写っている物であり、これも一義的に明確である、と。そういうことから、本件の写真集もまさに陰毛とか性器が写っているので、猥褻であることはあきらかである。そういう形式的な論理でやっています。
 また、日本の裁判の裁判例では、芸術性ということと猥褻に関しては、芸術作品だから猥褻ではないということはない、いくら芸術性が高くても猥褻ではあると、こういう解釈を戦後ずっと、『チャタレー夫人の恋人』とかいろいろな作品の裁判例を通じて国側は言ってきておりますので、この裁判でも、たとえメイプルソープの写真集が芸術作品であっても、猥褻は猥褻だという主張を国の方はしています。
 この裁判の意義としては、一つには、「税関検査は検閲ではない、憲法違反ではない」とした10年前の最高裁の判例の問題点を糺すということがあります。さっき土屋さんも言っていましたが、国内的には、猥褻物に関しては、販売する、人にあげる、または営業目的で所持している、これだけが刑法で禁止されています。が、個人が単に自分で見るという目的で買った場合には、法律の禁止するところではない。したがってよくあるように、たとえば猥褻物を売った、売った人は処罰されるが、買った人は処罰されないということは、そういうところからきているわけです。それならば、なぜ、日本の国内に個人で鑑賞する目的で写真集を持ち込むことが禁止されなければならないのか、ということが問題となります。
 関税定率法が猥褻物を輸入禁制品としている理由は、裁判所は、国内に持ち込まれてしまうと、それが広く頒布される恐れがある。頒布されると、刑法175条の猥褻物頒布罪を引き起こす、それを未然に防ぐために、水際で阻止する、と、こういう言い方をするわけですが、個人で鑑賞するということをそもそも法律は禁じていないのですから、それを水際で阻止するということは、非常に不合理だと思います。
 これに関しては、最高裁判所は、個人で鑑賞する目的なのか、それを大量に販売する目的なのか区別することができない。したがって、いっしょに取り締まってもしかたない。この「しかたない」ということで逃げたわけです。しかしそれこそが問題なのであって、これはまさに「表現の自由」、また「情報を受け取る自由」「知る自由」の問題であることを考えると、これは憲法の保障する「表現の自由」、憲法の中でもいちばん厚く保護されるべき部分に関する問題といえます。「しかたない」という理由で、すべてを一斉に禁止するということは、はたして憲法に違反していないのか。現在、憲法学者の間では、個人で鑑賞するという目的で輸入することまで禁止するのは行き過ぎである、憲法違反であるということが相当強く言われております。
 この裁判では、まず一つは、個人の鑑賞目的に関する税関の規制は憲法違反ではないかということを問題にしていきたい。もう一つは、メイプルソープの写真がはたして猥褻なのかどうか、また、それが輸入禁制品とされるべきものかどうかという、この二つが争われると思っています。
 そういう意味で、まさに10年前の最高裁判所の判例がどれだけ変えられるか、それに対してどれだけ抵抗できるかということが問題だろうと思うし、私としては、今後、こういう裁判がもっとどんどん起きなければ、日本の税関の事情は変わっていかないのではないかと考えています。日本の特徴としては、裁判所は権威がありますので、いったん判断すると、かなり影響力があります。さっき、国が負けたら最高裁までうんぬんという話が出ましたが、実際問題としては、こちらが負ける可能性の方が高いわけで、こちらが最高裁までいかざるを得ないであろうと思います。
 しかし、この裁判の中で、10年前の最高裁の判例に対して、どれだけ問題提起ができるか。また、現在の日本や世界の芸術作品の状況、また日本国内のおいて、ヘア・ヌードが日常化している、そういうことも含めたこの10年間の時代の流れが、どれだけ税関や法律の解釈に影響を及ぼすべきかということが問題となっていくんじゃないかなと思います。

司会
メイプルソープの写真集をめぐる税関と裁判の問題について、飯沢さんはどうご覧になっていますか?

飯沢
まず、裁判を起こされた土屋さんに関する感想めいたことを言うと、よくやってくれた、こういう人を待ってた。というと、ヘンな言い方ですけど、僕自身もそういうことを起こす可能性があったんですけど、やっぱりできなかった。そのことに関する反省を含めて、ほんとによくやっていただいた。これからはどんな形にしても、全面的に応援していかなきゃいけないと思います。今後、どうなるかわからないんですけど、きょうの集まり方を見てみると、まだまだそれほど切迫した危機感を持ったものとしては受け取られていないといえると思うのですけど、じつはこの裁判はたいへん危機感を持たざるを得ないような状況がわれわれの回りにあるってことを、よく示していると思うんですよね。ですから、これを応援していただくとともに、僕自身もなるべくいろいろな形でこの裁判の経過とか、進行とかを、アピールしていきたいというふうには、聞きながら思っていたんです。
 何が基本的な問題になっているかというと、一つは「猥褻」といわれているものがどうなのかってことですね。それからそれにともなって、写真表現の中における「性を扱う表現」がどうあるべきか、どのように考えたらいいかということがあります。
 最初の「猥褻」ということに関して、今聞いたことについての感想も含めていうと、これは裁判所の判断とか法律上の問題は別にして、僕個人の考え方からいうと、「猥褻」という観念は存在はたしかにすると思うんです。羞恥心。一人一人の心の中にそういうふうなものが起きることは間違いない。あるものを見て、恥ずかしいと思う。あるいはあるものを見て、これは見たくないと思う。あるいはこれは誰かに見せたくないという気持ち。それが起こることは間違いないわけで、「猥褻」そのものは現に存在する。
 ただし問題は、「猥褻」が法律的に罰せられる罪なのかということです。これは考えざるを得ない。よく被害者のいない犯罪という言い方がされるわけですけど、「猥褻」と思って買って、その「猥褻」を楽しむわけですね。われわれ男の大部分はそうだと思うですけど。その場合に、何の社会的な責めを負うような問題ってのは発生していないんですから、それに対して罪を与えてしまういうことは非常に問題だろう。ただ、個人鑑賞と販売は別だというのは、今の話からよくわかりましたけれども、販売の場合も、はたしてそれを売って、罪になるんだろうか? 仮に暴力団の資金源に使われるとすれば、それはまた話が違ってくるんだろうけど、誰かが買いたいと思っているものを売ること自体に何か問題があるのかという根本的な疑問があるわけです。
 もう一つは、これが猥褻なのか、猥褻じゃないのか判断するというのは、あくまでも個人が判断すべきことであって、お上が決めるものではないんですね。「猥褻」というのは、一人一人の人間の頭の中にできあがってくる観念であって、その頭の中を管理することはできないわけだから、それに対して、何らかの形で規制するということ自体は非常に間違っていると思うんです。たとえば、イギリス19世紀のヴィクトリア朝の人たちはテーブルとか脚が猥褻だと感じて、それにパンティみたいなものをはかせたということを読んだことがありますけれど、ある「猥褻」の観念に対して非常に敏感な人にとっては、椅子の脚が猥褻なわけですね。ある「猥褻」に対して非常に鈍感な人にとっては、大股開きだろうが、性器だろうが、それはけして猥褻とは感じない。その証拠に勃起しないじゃないか。そんなような単純な理屈で言ってしまえば、「猥褻」という観念そのものは非常に曖昧なもので、個人の判断に任せるべきものなのに、公権力が何らかの形で規制するってこと自体がおかしい。そういう非常に根本的な疑問が常々あるわけですね。
 あたかも「猥褻」という普遍的な概念が存在し、その輪郭がはっきり確定していて、たとえば、このメイプルソープの写真は誰が見ても、形式論理的に猥褻だという判断が成り立つか、成り立たないかというと、全然成り立たないと思うんですね。ですから、ある人は猥褻ではないというし、ある人は猥褻だという。そういう判断の揺れが常にあるわけで、そういう判断の揺れがあるものを一義的にシャットアウトするという一種公然たる権力を駆使することというのは、非常に問題があると思います。
 それから二番目は、写真表現と性表現という問題です。写真というメディアは発明されてから、150年くらい経つわけですけれど、発明された当初から、性表現という問題と強く関わるざるを得ないメディアであったと思うんです。なぜかというと、写真というのは、生々しい現実の姿をそのまま再現する。表現というより再現してしまう。ですから、そこには、人間なら人間を写すとすると、人間の持っているギリギリの状態というか、観念を覆いかぶせたものとか粉飾したみたいものではなくて、まさに裸にされた状態っていうのがそのまま写ってきちゃうんですね。
 ケネス・クラークという有名なイギリスの美術史家が「ヌード」と「ネイキッド」という区別を本の中で書いているんですが、nude ヌードというのは理想化された人体です。ギリシア時代以来の理想的なプロポーションというのがありまして、それを人体に託して、言ってみればヴィーナスみたいな裸体を描いていく。そういう伝統が西欧の絵画や彫刻の中にずっとあって、重要なジャンルとして認められ続けたのです。そういうものは、けして猥褻なものとして見なされないわけです。税関もミロのヴィーナス像をけして猥褻とは見なさない。ところが、ケネス・クラークの言い方をすると、裸体表現にはもう一つ種類があって、それは衣服を剥ぎ取ったまさに裸の状態、それを英語で、nakedネイキッドと言うんですが、そのネイキッドな状態を表現する絵画とか彫刻とか文学とかがある。ネイキッドな状態なものというのは、当然、猥褻なもの、エロティックなもの、性的なものに関わってくるわけです。写真というのはもともと発明されたときから、ケネス・クラークもはっきり言ってますけど、ネイキッドに関わるメディアなんです。
 理想化された人体を追い求めるというのは、逆に、非常にむずかしいんです。メイプルソープの人体は非常に理想化された人体だと思うんですが、そういうメイプルソープ的なかなりきれいなフォルム、あるいは構造の中でかなり厳密な構図とかを追い求めていくやり方にしても、やはり、ある種、衣服を剥ぎ取られたネイキッドな状態を出現させてしまう。そういう宿命を負うているわけです。だから、とくに写真によって裸体や人間のからだを表現する写真家の宿命として、当然剥ぎ取られた裸の、ネイキッドな状態が写真の中に組み込まれてきてしまう。写真家たちはそうしたネイキッドな状態を見せるということに、ずっとこれまで、自分の表現のいちばん中核になる部分を賭けてきたと言い切っていいと思います。
 写真における肉体表現ということを考えてみると、性的な表現、猥褻な表現、あるいはネイキッドな表現というのは、根本的なことなんです。だから、もし仮に税関の主張が正しいとして、そういったネイキッドなもの、猥褻なもの、性器の写っているもの、といったものがダメだとすると、写真における表現のいちばん根本的なものを揺るがす事態になってしまうということで、写真に関わるわれわれしては許すことができない。

メイプルソープ

司会
メイプルソープの位置づけはどうなんでしょう?

飯沢
ロバート・メイプルソープは70年代後半から80年代にかけての、アメリカのみならず、世界的に見て、写真における肉体の表現、あるいは性の表現の第一人者であり、性という人間の運命に関わるそういった重要な課題を真正面から見据え続けて、その結果、自分自身がエイズになって亡くなった。言ってみれば、彼自身がエイズで亡くなることによって、70年代、80年代のアメリカ社会とアメリカ文化とアメリカの芸術を象徴する人物になってしまったという、そういう作家であり、彼の作品、あるいは彼の生涯の重要性は、彼の死後、彼の展覧会が全世界で開かれ、写真集が山のように出ていることでもあきらかです。
 僕自身も彼の作品を評価するっていうよりは、彼の作品に向き合わざるを得ないという気持ちが強いですね。どちらかというと、はっきり言って好きなタイプの写真家じゃないですよ、メイプルソープというのは。何かアメリカ的なショウビズムというんですか、自己露出的な部分が非常に強くて、そういう雰囲気に対してやや辟易する。それから彼の写真のデッカい黒人のペニスを見ていてても、やはりグロテスクさみたいなものを感じてしまいますし、彼自身の作家性ということを問われれば、けしてそれほど好きな作家とはいえない。ただやはり彼について何らかの形で考えていかざるを得ない。とくに『デジャ=ヴュ』でも特集したんですけど、「Xポートフォリオ」と呼ばれるSM行為を撮影したシリーズというのは、メイプルソープ自身を作り上げているたいへん大きな要素になってまして、そこを抜きにしたメイプルソープというのは何の意味もないんですね。だから、特別この部分というのは非常に重要なポイントだと思いますので、それを抜きにした写真集とか展覧会というのは、これはもう無残なものに終わるというのは、日本を巡回した「メイプルソープ展」が証明していると思います。僕も書きましたし、何人かの方が指摘していますが、あの「メイプルソープ展」というのは、ほんとに気の抜けたサイダーみたいなもので、あんなのやるくらいだったら、止めた方がよかったじゃないか。そういう写真家の根幹になる部分を覆いかぶせてしまうというか、見えないようにするというのは、はっきり言ってどうしようもないことだと思います。

司会
先ほど、山下さんの方から「税関検閲」という言葉が出ましたが、国側の主張は、「検閲」とは思想内容を対象とするものだが、税関検査はそれとは別に物の外観・性状を対象としており、性器・陰毛が写っているという外観から猥褻だと判断したのだから、これは「検閲」には当たらないというものです。この点についてはどうなんでしょう?

山下
たしかに国側の言うように、性器とか陰毛とか見ればわかると言えなくもないんですけど、じゃあ、すべての写真をそう見ているかというと、ある程度文脈的に判断していると思うんです。

飯沢
そういう部分をこだわる見方は、他の国の例を知らないんですけれど、どうもたいへん日本人独特な見方であり、何とも奇妙なフェテシズム・・・(笑)いや、実際ほんとそうなんで、これほど性器、陰毛にこだわっている国っていうのも非常に珍しいと思いますね。
 国の主張については、いろいろな反駁の仕方はあると思うですけど、まず、性器の外観が猥褻なのかということなんです。性器の外観は別に猥褻でも何でもないんですよ。そんなこと言うんだったら、われわれ全員が逮捕されなきゃいけない。(笑) みんな性器を持っているわけだし、お風呂入れば当然目に入りますからね、あっ、女性はちょっとむずかしいかもしれませんけど。男性は当然おしっこするときは、目に入っているわけですから、これを猥褻だというなら、全員が留置場に入らなきゃいけない。
 つまり、さっきから言っているように、「猥褻」というのは、頭の中の観念の問題であって、形状によってそれを猥褻か猥褻でないかを判断するのは、不可能なはずなんですね。それを国はなんでそういうふうに言い募れるか、僕は逆にききたいですね。(笑)

荒木経惟さんのAKT-TOKYO事件

司会>
出版社や輸入業者が引っかかった場合、取引先との関係もあって、事実上、異議申立や裁判をしていられないといいます。先ほど、話に出ました刑法の猥褻物頒布罪の場合は、さらにダメージが大きいわけですが、荒木経惟さんの写真集『AKT−TOKYO』はどういう事件だったんですか?

飯沢
荒木さんの件は非常にいろいろな問題を含んでいます。まず、マスコミの報道は非常にまずかった。マスコミの第一報っては最低だったと思うんですね。調べもしないで警察発表をそのまま書いているわけだし、あれを読むと、荒木さん、ないしパルコが儲けるのが目的で猥褻な写真集を輸入して売ったというふうな書き方でしたね。そのへんを含めて、世論誘導的な書き方になってしまっている。その世論誘導的な書き方というのは、じつは警察の意図であったのではないか、そういうふうに僕は判断しています。
 つまり、ヘア・ヌードを含め、いろいろな形で、一般的な社会的風潮みたいなものが、だんだん性表現を自由にしていこうという方向に強く向いていたんですね。写真集の販売に関しても、外国から輸入されてくる写真集でも、メイプルソープを含め、性表現を追及している写真集が堂々と売られている。『AKT−TOKYO』もその一つなんですけど、そういう状況というのが去年は一般化していたと思うんです。そのことに対する警察の危機感が一連の事件の中に現われていて、新聞・雑誌が見事に引っかかった。おかげで、いろいろな形での自粛が始まりまして、具体的に言うと、洋書屋さんの店頭からそういう写真集が消えてなくなったり、印刷会社がビビッてやらないようになってしまったり、そのほか、大なり小なりいろいろな形での自粛ムードが醸し出されてきているんじゃないかという気がします。いちばんの狙いというのはそのへんだったはずで、それが見事に成功してしまった。これに対して、何らかの形で僕らは反論していかなければならないと思っています。
 第一報がそういう状態だったし、僕らも情報がなかなか入らなかった。Mさんが逮捕−−Mさんというのはパルコの人ですけど−−、彼女が逮捕されてしまって、どういう状況なのかよくわからなくて疑心暗鬼だったんです。
 だんだん情報が入ってくるにつれ、警察はあのとき、「エロトス」の写真展を問題にしようとしていたということがわかってきました。しかし写真展そのものは、それほど問題になるイメージはなかったんです。「エロトス」全体が非常にメタフォリカルに、女性器や男性器を表現しているので、直接的にメイプルソープのようにバーンと出しているわけじゃない。そこらへん含めて「エロトス」の写真展そのものは、何ら問題にするに足りない。で、回りをよく見てみると、写真集があった。これは何だというと、『AKT−TOKYO』。それを開いてみると、性器がはっきり写っているものがあった。これで引っかけてやろう−−ということなんです。ついでにやってしまったというニュアンスが非常に強いんですね。ついでにやられて、逮捕されて、実名まで出された彼女はどうなるのか。それがいちばんゆゆしき問題だと思います。
 警察側としては、あれから荒木さんが販売に関わっているということを立証したかったようですけど、それはもともと無理な話で、荒木さんが販売に関わるわけない。結果的には、逮捕されたMさんたちは不起訴で、そういうふうな意図というのは完全に潰れました。ただ、その代わり、自粛ムードを作ったということで、残念なことになってしまいました。
 そういう状態のなかで、僕らはやはり何かしなきゃならない。『AKT−TOKYO』の制作スタッフと『デジャ=ヴュ』編集部は昔から付き合いがあったので、「AKTーTOKYO」を企画したフォルム・シュタットパルク−−オーストリアのグラーツにある公的な芸術文化機関−−から声明文を出してもらおうということになったんです。で、フォルム側からの声明文は、副会長のクリスチーネ・フリシンゲリーさん−−フォルムの出版部門を主体的に運営している『カメラ・オーストリア』の編集長−−の名前で、11月5日に出ました。全文を『デジャ=ヴュ』15号の「あとがき」に転載しています。
 フォルム・シュタットパルクとは、オーストリア政府とグラーツ市の援助を受けている公的機関であって、日本で言えば公立美術館みたいなものです。でも、日本の公立美術館と違うのは、日本の場合、たとえば運営主体の地方自治体がよく学芸員のやりたい展覧会を潰したり、メイプルソープ展なんかにプレッシャーかけたりすることができるんですけど、フォルム・シュタットパルクというのは芸術家と芸術家を支える人たちが自主運営をする。だから、運営内容に関しては、国とか市は一言も口を挟めない。お金は出すけれども、運営は完全に任せているという非常におとなの運営の仕方をしています。
 そういう自由のあるなかで、日本の写真・文学・演劇・美術など芸術文化全般についてのいろいろな展覧会やシンポジウムを開いていて、その評価は、ヨーロッパのみならず世界的に非常に高い。とくに写真部門はたいへん充実しています。というのは、運営に関わっている『カメラ・オーストリア』に、古屋誠一さんという日本人の写真家がいて、日本とのパイプがあるからです。
 その一環として、92年に荒木経惟さんの展覧会が企画された。その展覧会のために古屋さんと『カメラ・オーストリア』のマンフレート・ヴィルマンが来日して、1カ月くらい東京に滞在して、展覧会の構成を練りました。荒木さんという人は、よく他力本願と言って、今は自分で動こうとしないで、僕とか誰かが「こういう展覧会をやるから、こういう写真がほしいんですよ」と言うと、「あー、はい、はい。やりましょ、やりましょ」という感じの人なので、この場合にも、作品の選択に関しては、ほとんど荒木さんは関わってないと思うんですね。マンフレートと古屋さんが過去の写真集から写真を構成して、「じゃあ、これでいきましょう」といって実現したのが、「AKT−TOKYO」。
 「AKT−TOKYO」展はグラーツで、1992年6月から7月にかけて開催され、その後、イタリア、ドイツ、ベルギーなど中部ヨーロッパを巡回しています。そのなかで、いろいろな反応が返ってきていますが、今までのところ、猥褻うんぬんという反応は一度も起きていない。ただし、フェミニズムのグループから、縛りの写真について、これはまずいんじゃないかというクレームがついて、展示場係の女性たちがボイコットしたということはありました。でももう、この問題は解決したそうです。そのことについては、古屋さんが『創』という雑誌に報告を書いています。
 要するに、ヨーロッパの観客の反応というのは、性器が写っているうんぬんという非常に低レベルの反応じゃないんですね。日本で展覧会をやった場合、当然のことながら、性器レベルの幼稚な反応が予想されます。逆にわれわれはこういう問題を通じて、写真やアートを見るという行為そのもののレベルアップを図っていかなければ、いつまでたっても、低レベルの次元に巻き込まれてしまって、毛は写っているけれど不毛な論議に留まってしまう。(笑)
 フォルム・シュタットパルクからの声明文−−マスコミは勝手に抗議声明としていますが−−では、「・・・フェアな審判をなされるようにご協力をお願いします。誠に遺憾なことであると受け止めています」となっていて、抗議ではないのです。これを、『デジャ=ヴュ』編集部を通して、マスコミ各社に流しました。反応はまだまだで、一部を引用したところはありますが、全文を引用したり、積極的に取り上げたりするマスコミはまだないわけで、それも問題だと思います。最初の「荒木」さん、「逮捕」ということはセンセーショナルに報道するけれど、そこから後はどうなったのか、丁寧にフォローしているメディアは全然ない。

司会
今の『AKT−TOKYO』をめぐる事件を聞いて、法律家として、どういう感想をお持ちですか?

山下
飯沢さんもおっしゃっていましたが、警察がある種、危機感を募らせているということでしょうね。この1年でヘア・ヌード写真が一般の週刊誌に毎週出ているという状況で、全く取締りができない。『サンデー毎日』にそのへんの事情を書いた記事があったんですが、結局、警察が取り締まろうとしても、その上の検察や法務省が裁判やれば必ず負けるからと、警察を抑えている。しかし警察には危機感がある。このままいくと、いくところまでいってしまうというか、全く規制ができなくなってしまう、と。
 そのなかで、ここ半年ぐらい、荒木さんの事件に至るまでの間、何回か、性器だけを写した写真展とか、ヘアが出るオペラとかに必ず警察官を派遣していたという事情があって、それを逐一マスコミも報道していたという状況もあった。一つには警察の危機感があって、もう一方、マスコミの方の期待感といいますか、マスコミの一部では規制すべきではないかと警察を煽っているところもあった。それが相俟って、今回の逮捕に至ったのではないか。
 今回の逮捕はどう見ても、見せしめ的な逮捕であるのはあきらかです。現場に対して、こういうことをやったらたいへんなことになるよ、という見せしめ効果を狙った逮捕で、それをマスコミの方も期待していたフシがある。マスコミと警察の合作である、と私自身はそういう気がしています。
 法律的には、逮捕ということ自体、とんでもないことだったと思うし、しかも現場の人を逮捕したということが非常に問題であろうと。不起訴になったので、争えないでしょうけれど、私としては、逮捕に関しては、抗議しなければならないのではないかと思います。

司会
検察はなぜ、裁判をやれば負けてしまうんですか?

山下
猥褻裁判は10年くらいかかるから、最初始めた頃と社会通念が変わってしまい、無罪になるケースがいくつもあるので、検察はやりたがらないんです。そういう意味では、当分、裁判にならないという状況が続くと思います。要するに、警察が逮捕したとしても、検察庁が起訴しなければとりあえず裁判にならないわけですから。
 ただ、条文はあるわけだから、逮捕自体はやろうと思えば警察はやれる。まあ、そういうあたりで、実際に処罰できないとしても、そういう条文が威嚇効果を狙って今後も利用されると思います。権力からみたら、それで十分で、よっぽどひどい事例に関しては処罰もありうるということでしょう。

猥褻はなぜいけないの?

司会
猥褻物を取り締まる条文があるから、ということですが、そもそも、猥褻だと、なぜいけないんですか?

山下
法律の世界では、今まで、猥褻を規制するのは当然というところがあって、猥褻はともかくいけない、と。なんだか、よくわかりませんけど、(笑)
 そういうことになっていまして、日本の場合、戦前には、猥褻=悪で、全く疑いなかったんですね。戦後になって初めて、「表現の自由」ということから、猥褻だからといって規制できないのではないかということがようやく少しずつ言われてきましたが、これも最近のことで、戦後も初期の頃は、全く疑いなく、猥褻は悪い、と。風俗を害する、と非常に抽象的なものをもっていけないという。あんまり理由はないという気が私はしますね。猥褻はなぜ悪いかという議論がない。議論がないことが問題だろうと思います。
 また、猥褻だと誰が判断するかという問題があります。猥褻だという判断はかなり主観的な、思想・信条に関わることで、それを国が判断するということ自体が間違っている。「思想・信条の自由」、「表現の自由」に関わってくる問題で、国が判断するのは危険だと思うのですが、そういう観点がないですね。裁判所なども、最後は裁判官が判断すればいいんだという発想をしている。それ以上詰められないんですね。全く不毛というか・・・。
 ほんとうに法律の世界では、なぜ猥褻はいけないかとか、誰が猥褻を判断するのか、裁判官が判断していいのかという議論がないですね。そういうことを考える裁判が少ない。実際、戦後に猥褻裁判の中で、問題提起はされてきましたが、噛み合った形で議論はされていない。その作品が猥褻なのかどうかというレベルで終わっている。

司会
なぜ、猥褻物の販売を規制しなければならないかという理由付けとして、さっき飯沢さんもふれていましたが、暴力団の資金源になるからという説があります。しかしなぜ、それが暴力団の資金源になりうるのかといえば、現在そういったものが規制されているからで、自由化されれば、暴力団は困る。暴力団はポルノの自由化に反対するはず、と言っている人もいますね。(笑)

飯沢
うん、それはあるかもしれない。表現者の側からいっても、これは荒木さんがよく言っているんだけど、そういうものが自由化されると、かえって困っちゃう人も出ている。つまり、猥褻物=禁制品を見ているというセンセーション、心ときめかせる部分があるでしょう。それを利用することによって、なんとなくインパクトがあるように見せかけるという人もいるわけです。だから、表現のレベルで、かえって自由化したらまずいんじゃないかというヘンな懸念もある。隠した方がいいんじゃないか、と。
 たしかにそれも一理はある。ただ、それを言い始めると、やはりつまんないことになりますね。隠すなかにエロティシズムを感じるというのはその通りなんで、そういうタイプの人もいてもいいし、メイプルソープのように開くことで、人間の存在を語るタイプがいてもいいわけだし、性器を見せるか見せないかは作家一人一人の判断に任せていいんじゃないか。今のところは、一方的に開く側が否定されているわけで、それは不公平だと思います。
 性表現の中には表現上は許されても、倫理上は許されないものもあります。幼児虐待とか、強姦とかそういうのは倫理上許されない。それを判断するのは、やはり観客とアーティストだろう。

司会
観客の側から自分の倫理的判断をアピールすべきということですか?

飯沢
それはアピールすべきじゃないのかな。前に、美術館の人と話していて、日本の観客の反応がすごく弱い。だから観客の反応を考慮にして展示を構成していいんじゃないのかという話をした。ただ、それがね、非常に恐いのは、管理側の言い訳に使われるちゃうんです。誰かが抗議した、警察がよくやったじゃないですか。捕まえるときの根拠に、タレ込みがあった、とか。 先日も、そういう問題にぶつかったんです。名古屋の愛知芸術文化センターで、「写真による身体表現」という講義をスライドを使ってやったとき、ラリー・クラークという写真家と荒木さんの「エロトス」をスライドにしてくださいと学芸の人に頼んだら、学芸の一つ上のレベルで「ちょっとやめてくれ」と言う。彼らの論理というのはいつもそれで、これが何か問題になって、投書が来たら困る。それに対して、僕が非常に腹が立つのは、これは日本の風土一般的に言えるわけですけど、問題になるとまずいと思っている。総会屋の論理なのね。問題になった方がいいんだという発想がないんです。問題が起こるとマイナスになる、自分のクビが危ない。

山下
そうですね。事なかれ主義。何もない方がといいと思っている。

飯沢
でも、それは完全に間違いであって、何かあった方がいいんです。ほんとうは、観客の方からいろいろなアピールがあるというのがベストな状態だと思うんだけど、日本の美術館というのは、美術館に限らず、日本のあらゆる行政は問題になるとまずいという発想でやってしまう。
 こういう猥褻の問題というのも、全部それにかかってくる。このあいだの荒木さんの事件でのパルコ側の対応はまさにそれで、問題になっちゃったから、逮捕された彼女が悪い、というそういう論理なんですね。それをもう一つ問題にすべきだなと思います。

司会>
猥褻だから悪いといいながら、じゃあ、猥褻って何さ?と言われると、よくわからないですね。

山下
裁判所では、「猥褻」の定義として、いまだに「いたずらに性的羞恥心を害し・・・」とかいうわけのわからない定義でやっているんですが、これは戦前からずっと同じ定義でやっているんです。最近では、「猥褻」というものがあるとしても、それは非常に狭い、限定されたものであって、ハード・コア・ポルノ以外は自由にすべきではないかと考えられています。
 それからなぜ日本では猥褻物頒布罪があって、処罰されるのかという理由について関しても、読みたくない人のためのものである、あまりにも街に氾濫しているから見たくない人の目にふれるのを防ぐ、という観点から考えるべきではないかという意見もあったりします。
 こういうところが、最近の「猥褻」に関する議論です。

司会
現状をほっといて、法律的に偏った規制をしようというのは問題でしょうね。やはりゾーニングということを考えなければならないのでは?

飯沢
法律的なことはよくわからないけれど、一般的に法として規制すべき問題と、法として規制しても仕方のない問題があると思うんですね。
 反社会的なものということで言えば、たしかに麻薬とか銃とかの場合、これを自由化していくことの影響力は非常に大きいすぎると思うんです。逆にドラッグ的なものを認める立場ってのがあるのももちろん知っているし、それもわからないではない。ドラッグ的なものを自由化したときに、普通の自分を保てる人も存在するわけだから、そういうことを考えてみると、非常にむずかしい。
 じゃあ、猥褻は規制すべき対象なのかというと、そうじゃないと僕は思う。麻薬的なものと同レベルで考える問題じゃないじゃないかな。

山下
今、いちばん問題なのはCD-ROMですね。CD-ROM型の写真集とかアダルト・ビデオとかが相当出回っています。

土屋
CD-ROMは税関がタイトルをチェックして、ブラック・リストと照合しています。
 ただ、CD-ROMの場合、税関で引っかかっても、部分修正が効かないので、争うか放棄するかなんですね。どうせ放棄するなら、「異議申立」をすればいいんですけど、そういう制度があること自体、みんな知らないし、お金がかかると思っている。配達証明で出せば、何百円かかかるけど別に普通便でもいいし、他にはまったくお金かかんないんだよ。法律で保障されている権利なんだから、みなさん、やればって勧めたいですね。

飯沢
「異議申立の仕方」みたいなマニュアルを作って、やり方を広めたらいいですよ。税関を揺さぶる方法というのはいろいろあって、土屋さんみたいにどんどん提訴していくのも手だけど、少なくても、「異議申立」の段階までは誰でもやれるんだから、みんなそれをやるべきだろうなと思います。マドンナの写真集が税関の判断で輸入できなかったときに、たとえば1000人がマドンナの写真集を買ってきて、1000通の「異議申立書」を書いたら、どうなっていただろう。税関の機能がパンクしたんじゃないか。

山下
やれば、相当影響力はあると思います。そういう運動がないところが問題なんです。

飯沢
だから、そういうことを、一人一人がやっていく必要があると思うな。
 まあ、ともかく まあ、ともかく、個人的なレベルで判断すべきことを公が判断しているということが、日本はとくに多い。それは、行政がわれわれ国民を子どもとしてしか見ていないってことですよ。幼稚な子どもで、ほっときゃ、何やるかわからない。われわれを一人前の判断力のあるおとなとして全然見ていない。そこがまず、非常に問題でしょうね。そういうことを一つ一つ壊していかないと、日本の国ってのは幼稚なレベルで終わるんじゃないかな。お金はあるけれど、幼稚だ。恥ずかしいと言えば、恥ずかしいんですけど。
 『カメラ・オーストリア』の古屋さんが書いていた文章で、まず、パルコの社員が逮捕された事件を聞いて、『カメラ・オーストリア』の編集部ではみんな笑った、と。最初、大笑いした。大笑いしてて、話を聞いているうちに、これはひどいということになって、今度は怒りに変わるわけだ。そういう反応というのは、国際的には絶対に返ってきます。最初は笑われて、そのうち、こいつはヘンだ、不気味だということになってくる。
 やっぱり、行政にもう少しおとなとして扱ってもらうようにしないと。

司会
最初の方で、裁判をどんどん起こしていかないと、状況は変わらないというお話がありましたけれど、負けても、何か意味があるんですか?

山下
一つには、そういう裁判をやるということ自体、権力にとって、すごく負担になるんですね。10年かかるというのは権力からみたらものすごく負担だし、しかも負けるかもしれない。
 もう一つは、裁判所にとって勉強になる。僕は、裁判所にもっと勉強してもらわないといけないという気がします。裁判所というのは、過去の裁判例を見て、これはこうだと当てはめて終わるという発想なんですが、そうじゃないよ、ということをこちらが教えていかないと僕は思う。そういう意味では、裁判というのは、まさにそういうことを実践するチャンスです。
 裁判をやることはこちらにとってもたいへんなことですが、やること自体には意味があります。

土屋
誰もチャレンジしないと変わっていかない。

飯沢
それも正しい。ちょっとやっては引っ込め、ちょっとやっては引っ込めって、そういうふうなやり方、ほんとうに根回し社会だねえ。誰かが劇的に変えるみたいな感じはないよね。
 しかし、そういうやり方っていうのは、これまではうまくいったんですよね。日本が自分の意見を持たなくても、誰かのマネしていれば、それで成り立っていた。これからどうなんだろうね。

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