原告の1993年(平成5年)12月17日付準備書面(1)の要旨

一 税関検査の「検閲」性について

  1. 被告らは、税関規制が憲法21条2項前段の「検閲」に該当するか否かにつき、最高裁判所1984年(昭和59年)12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁(以下「最高裁判決」という。)が示した判断及び「検閲」の定義を援用しながら、1税関規制は思想内容等の伝達を規制することを目的とするものではなく、関税の公平確実な賦課徴収及び税関事務の適正円滑な処理を目的とする手続であること、2当該貨物に含まれていた思想内容等は、国外において既に表現の機会を得て発表済みであること、3該当通知に示された税関長の判断は不可争的な最終的なものとされている訳ではなく、最終的には司法機関の判定に委ねられていことを理由として、税関検査は「検閲」には該当しないと主張する。

  2. しかし、

    1. 思想内容等の伝達を規制することは、それが主要な目的ではないにせよ、付随的な目的とされているのだとしたら、それはやはり「検閲」と言うべきであるし、

    2. 日本国内における表現の自由ないしそこから導かれる情報受領の自由が問題となっているときに、国外において既に発表済みであると言っても、何ら日本国内の自由の侵害がないことを説明できていないと言わなければならない。さらに、

    3. 事後に司法審査が行われるべきことは、法治主義からは当然のことであり、そのことは行政権による事前規制を正当化させる根拠には到底なりえない(以上、奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』83頁以下所収の「税関検査の『検閲』性と『表現の自由』」参照)。

  3. 関税定率法21条1項3号は「公安又は風俗を害すべき書籍」を輸入禁制品と定めているが、これは、明治憲法下において、税関が内務省警保局図書課と密接な連絡を取りながら政治上道徳上好ましくないと考えられる書籍を輸入禁止にしていた制度を、日本国憲法の下でもそのまま引き継いでいるものであり、その法律的基礎においても、その組織においても、戦前の税関検査と異なるところがない。
     日本国憲法21条1項が表現の自由を保障しているのは、単にそれが人類不遍の原則だからではなく、明治憲法下において言論を抑圧した諸制度を否定し、その再現を阻止するためという経験的かつ現実的な要請によるものであり、また、同法21条2項が検閲を禁止したのも、戦前において内務大臣が有していた書籍等の発売禁止権を頂点とする諸々の検閲制度を否定しその再現を禁止する趣旨である。
     この観点からすれば、関税定率法21条1項3号は、表現内容について強制的に検査し、税関当局が輸入禁制品と認定し、その表現内容を国内で公表することを禁止する権限を税関に付与するものであるから、それは公権力による表現の自由に対する事前抑制であり、税関検査は憲法21条2項が禁止する「検閲」に該当すると見るべきである(奥平康弘「税関検査の違憲性」『同時代への発言・上』28頁以下参照)。

  4. 最高裁が示した「憲法21条2項にいう『検閲』は、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指す」との定義は、あまりにも限定的であり、極めて狭きに失するものであり、その解釈は、戦前における諸々の検閲制度を否定しその再現を禁止した憲法21条2項の解釈としては誤りであり、憲法の精神に反する解釈と言わなければならない。

二 「公安又は風俗を害すべき」との文言の文面上無効について

  1. 人権の中でも優越的地位にあるとされる表現の自由を規制する法令の文言は可能な限り明確でなければならない。国民にとって、何が許され、何が許されないかが明確になっていない場合には、それが表現行為にもたらす萎縮的効果が極めて大きいからである。また、規制範囲があまりにも広汎に過ぎる場合にも萎縮的効果が大きい。
     したがって、不明確又は広汎に過ぎる場合には、その法令は憲法21条1項に違反するものとして文面上無効とされるべきである。

  2. そして、最高裁判決においても、関税定率法21条1項3号のうち「公安を害すべき」との部分については、その補足意見及び反対意見において、それがいかなるものを指すかが極めて不明確であり、合理的な合憲限定解釈を施す余地もないので、明確性を欠き又は広汎に失するものとして憲法21条1項に違反すると判断しているのであり、関税定率法21条1項3号の一部が憲法違反であることを認めている。

  3. ところで、被告らは、最高裁判決の多数意見に従い、「風俗を害すべき書籍、図画」との文言については、それを合理的に解釈すれば、「猥褻な書籍、図画等」に限られると解することが可能であり、このような合憲限定解釈が可能である以上、その法文は明確であり、憲法21条1項に反しないと主張している。
     しかし、この点についても、最高裁判決の反対意見が述べるように、右規定の中に猥褻表現物が含まれると解することは可能であるとしても、それ以外に右規定による規制の対象として何が含まれるのかが不明確である。被告らも認める通り、「風俗」という用語の意味内容は性的風俗、社会的風俗、宗教的風俗等多義にわたるものであり、これを性的風俗に限定すべき根拠はない(なお、新村出編『広辞苑〔第4版〕』2125頁によると、「風俗」は「一定の社会集団に広く行われている生活上のさまざまなならわし。しきたり。風習」とある。)。
     仮に、税関検査の実務において、書籍、図画等を猥褻物に限定する取扱があるとしても(もっとも、大蔵省関税局職員であった植松守雄「『税関検閲』の現状と問題点」ジュリスト378号28頁は、右規定の1967年(昭和42年)当時の運用につき、「原則としてわいせつ又は残虐な内容を表示したものと解し、その判断について社会常識に照らして一応の基準を作成し、これに則って運用している」と述べている。)、右規定が猥褻物以外の物に適用される可能性を否定できないのであり、例えば「残虐な」表現物も含むとしたら(ベトナム戦争の実情を写した写真が残虐だからという理由で輸入禁制品に該当するとされたことがある。奥平康弘「日本版“ヘェア”物語-最近の税関検閲事例をめぐって-」『日本人の憲法感覚』148頁参照。)、それがいかなる物を包含するかは必ずしも明確でないばかりでなく、憲法上保護されるべき表現物まで包摂する可能性があるから、右規定は不明確であり、かつ、広汎に過ぎるものとして、憲法21条1項に反するものとして、文言上無効とされるべきである。

  4. さらに、右規定が、「猥褻な書籍、図画等」を指すとしても、その適用についての基準は明確ではない。刑法175条の「猥褻」の解釈をめぐって戦後から現在まで積み重ねられた裁判例があるとしても、それは裁判という司法過程において裁判官が判断するための判断基準であって、「猥褻」という文言は、裁判官ほど法的素養が備っていない税関職員がそれを判定するための基準となるほど明確でないことは明らかである(以上、奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』83頁以下所収の「税関検査の『検閲』性と『表現の自由』」。特に、112頁以下参照)。
     したがって、その観点からも、右規定は文言上無効とされるべきである。

三 所持目的の場合を含めて一律に輸入を禁止していることの違憲性について

  1. 人権の中でも優越的地位にあるとされる表現の自由を規制する場合には、規制する目的が正当であり、その規制手段が必要最小限のものであることが規制する側において主張・立証されなければならない。
     猥褻表現物については、それが猥褻であるとの理由だけで当然に公共の福祉に反するものとして当然に表現の自由を享有できないと考えるべきではない。表現である以上、原則として表現の自由が保障されるべきであり、それが刑法175条によって頒布等が禁止されているのは、読みたくない人間や見たくない人間に対し、公然と目に見える形で挑発的に流布され、かかる人間を不愉快にしたり羞恥心を抱かせることを防止するためであると考えるべきである。そうであるならば、自らが読むことを希望し、一人でこっそりと読む目的で書籍等を所持することそれ自体は権力のあずかり知らぬことでなければならない。それを禁圧することは、社会的な行為とは無関係な人の内にある思想それ自体を抑圧するのとほとんど同質であると言うべきである(奥平康弘「税関検査の違憲性」『同時代への発言・上』33頁)。
     したがって、猥褻表現物の頒布やそのための所持が禁止されることはやむをえない規制であるとしても、自分自身が見たり読んだりするための所持は規制されるべきではなく、単なる所持を目的とする輸入を禁止することは、個人の尊厳を基調としプライバシーを保護している憲法の精神を前提とする憲法21条1項に反すると言うべきである。

  2. これに対し、被告らは、単なる所持目的の場合を含めて、「風俗を害すべき」書籍等の輸入禁止をすることの根拠の一つとして、通関手続において何らの規制も行わなければ、大量のわいせつ物品が輸入され、わいせつ物の頒布等を禁止した刑法175条の実効性を著しく減殺させると主張する。
     しかし、猥褻表現物は、それが国内で頒布・販売される限りにおいて刑法175条による処罰の対象となるに過ぎないのであり、国外からの輸入品だけが特別に事前に規制されるべき理由は何ら存在しない。
     国家は、国内において書籍等が頒布・販売されるまでそれを確知することはできないし、捜査活動を開始することもできない。その意味において、頒布・販売を契機として捜査機関が活動することについては、国内で作製された場合と国外で作製された輸入された場合とで何ら異なるところはないし、輸入者を究明することが通常困難という点についても、それは国内で作製された書籍等につき作製者を究明できないのと同様である(奥平康弘「税関検査の違憲性」『同時代への発言・上』37頁)。
     したがって、被告らのこの点に関する主張は理由がない。

  3. また、被告らは、「猥褻表現物の流入、伝播によりわが国内における健全な性的風俗が害されることを実効的に防止するためには、単なる所持目的がどうかを区別することなく、その流入を一般的に、いわば水際で阻止することもやむを得ないものといわなければならない」と主張する。
     しかし、被告が自認する通り、税関検査は必要と認められるものについてだけ検査を行い、結果として税関検査が行われずに輸入許可を受けて国内に引き取られる場合がある。すなわち、税関制度自体がそもそも輸入禁制品を水際で阻止するような体制にはなっていないのである。本件で問題となっている書籍についても、国内の紀伊國屋書店本店において販売されているのであり、それが、税関検査を受けなかったか、それとも税関検査を受けたが輸入禁制品と判断されなかったかは原告において知る由はないが、いずれにせよ被告らの主張で指摘されている水際での阻止が図れていないことは明らかであり、それを根拠に、個人の所持目的による輸入禁止を正当化することはできないと言うべきである。

  4. さらに、被告らは、税関検査において個人的観賞のための単なる所持を目的とするか否かについて判断することは困難であると主張している。
     しかし、輸入しようとする物品が、個人の所持を目的とするのか、頒布・販売を目的とするのかは、数量や頻度によってある程度判断できることであろう。しかも、輸入令第14条別表第1の4においては、「個人的使用に供せられ、かつ売買の対象とならない程度の量の貨物」については輸入の承認と報告を要しないで輸入を認めている。猥褻表現物だけについて、個人の所持目的と頒布・販売目的とが容易に区別できないというのは、輸入令や通関の基準とも矛盾していると言わなければならない。


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