酒屋の二階を借りて友達の静雄と共同生活をしながら本屋の店員をしている〔僕〕は、九月になっても十月になってもいつまでも終わりそうにない夏を、〔貧しさ〕の意識をまとって汗まみれで生きている。

 約束を破るなんて誠実じゃないわと佐知子(同じ本屋の店員)に言われ、いいかげんな奴なんだあいつはと店長やまわりの人間に言われることを何とも思っていない。そのくせ〔僕〕は、賞金かせぎのように万引をつかまえていい気になっている同僚を、ゴキブリを退治するようにあっさりとぶんなぐる独自の誠実さに生きている。

 こうした主人公である〔僕〕をつくりあげてゆく佐藤泰志の表現意識を通底しているものは、〔働く〕ということは人間をムカデかなにかのように押しつぶして成就する〔制度〕にいやおうなく関与せざるをえない、という現代社会の生存条件をいかにさっぱりと表現しきるかという問題意識であり、そのような状態のなかでどうひねくれどうまっとうに生きるかということへのこだわりである。

 とくに後者は、作者自身の苛酷なアドレッセンスを色濃く染めぬいていたものであるとぼくには思われて仕様がない。そしてぼくにそのような印象を与えるこの作品の力は、佐藤泰志が、生活のレベルを裏切ることなく〔時代〕に下降しつつかかわってゆく緊張を、決して失うことなく生きていることの正当な証しとなりえていると言いたい。

 ぼくたちは自分の身のまわりにいるそうした人間の心を見えにくくして生きさせられている。母親、恋人、ほんとうに好きな友人iの心すら見えにくいのだ。粗削りに物語をかたるうまさに引き込まれながら読み進んでゆくうちに、ぼくたちはあらためて、口常親しくしているすべての〔隣人〕たちの孤独と沈黙の深さに、ほんとうにつらい気持で出合っている。

 佐知子と静雄が海水浴にでかけている間、かたくなに夏の路上にへばりついていようと考える〔僕〕は、本屋の同僚のゴキブリが卑怯な手口でやとったゴロツキ二人に徹底的になぐられ痛めつけられる。その激痛に、輪切りにしたレモン二枚を両目にあてて必死に耐えようとすることで、〔僕〕の想いは友人達のところに届いている。

 しかしそうした孤独な行為をまっとうしようとしているその時に、〔僕〕は、こんどは人生に徹底的に痛めつけられる。あたしたち一緒に(静雄と)暮すことに決めたのという佐知子の言葉、抑雄の母親の発狂、天気の日がずっと続けばいいと言って病院を見舞った静雄が母親の首を絞めて殺したという新聞記事、そして、おまえを襲った二人組の仕返しに手をかせなくなったと言って電話を切った直後の静雄の逮捕… 。

 文学は遊びではないし、かんたんに茶化されるものではない、という気持を強くしてぼくは本を閉じる。盲目にだらだらといつまでも続く季節の狭間で、無言に倒れていく友人達の生き死の悲しみを、自己の内部にたえず息づいている怒りに重ね合わせ、集約させていく極点においてこの作品は表現として成立しているのだ。

 「朝がどんな朝で、午後がどんな午後で/夕暮れがどんなさびしさなのか/たれもがみんなよく知っている/ かがみこむように消されてゆく声の痛みを知っている」

と主張した田中国男の詩のように、いつもぼくたちは、荒涼とした時代の累積悲劇のうえでうたおうとしている鳥たちの〔詩〕の痛みを知っていると主帳したい。

加藤 健次(加藤健次氏は当時岡山大学大学院文学研究科在学、現在は吉備国際大学教授)

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