学生のためのメディアをめざして
新聞会はここに再スタートする

共青による新聞会私物化を許さんぞ

 この3月、岡大新聞会は78年の再建以来最大の危機を迎えた。日共左派=共青−西・昇一派によるサークル活動の私物化、テロ支配である。
 彼らは新聞会の活動を引き回し、それに逆らう人間には卑劣な個人攻撃・誹謗中傷を加えて発言を封じようとした。挙句の果てにはボックス内でのテロリンチ。
 しかも共青は新聞会だけでなく寮闘争、日本原闘争にも介入をはかり、分裂を持ち込み、闘争を破壊しようとした。
 私たちは彼らの一連の問題が表面化した時点から新聞会メンバーに事情説明を繰返し、共青に断固たる態度を取るように求めた。新聞会が共青を内部にかかえたまま、これまで通りサークルとしてまとまって活動を続けることは不可能だし、許されるものではなかった。
 しかし前編集長をはしめとする数人が私たちからの提起を無祝し、逆に共青を支持して共に活動を続ける、という態度をとった。
 やむを得ず私たちは78年の新聞会再建以来の顧問教官である細谷教授とともに共青一派とは縁を切り、新聞会をまた新たに再建していく事を決意した。
 残念ながち共青一派は今なお「新聞会」を名乗り、ボックスに居すわって”活動”を続けている。私たちは彼らに対し、ただちにボックスを明け渡し、”活動”を停止するように求める。もっとも私たちは共青のような「相手を殴ってでもわからせる」などという”常識”は持っていない。あくまでも彼らが「新聞会」の”活動”〃を統けるというならば勝負は新聞の読者たる学友に決めてもらおうではないか。キャンパス・コミュニティ・メディアを目指す私たちの岡大新聞か、それとも共青の機関紙化した彼らの「岡大新聞」か。結果はハッキリしていると思うのだが。

共青は何をやってきたのか

 日共左派=共青というのは60年代に中国派(毛沢東派)として日本共産党中央から独立した日共山口県委員会が基になって作られたセクトである。岡大にも昔から居ることは居たようだが、その活動は機関紙販売、ビラまき、学習会などが中心であり、何ら学内への影響を持たぬ、言ってみれば毒にも薬にもならない存在であった。
 それが79〜80年に新聞会員西をオルグし、彼が共青岡大班の中心的活動家となってか、らはセクト主義独善主義を強め、岡大学生運動への介入、奇生・分断をする存在になったのである。
 80年には、新サークルボックス闘争の総括をめぐって彼らは自分たちの全国機関紙『先峰』に学友会総務委買を名指しで批難する記事を出した。共青は学友会には何ら関わりも責任も持っていないにもかかわらずにである。またその秋、韓国での金大中氏に対する死刑阻止運動が全国的に高まった時には「金大中はアメリカ帝国主義の手先だから殺されてもかまわない」と運動の妨害をして回った。
 そして昨年2月、2・11集会(毎年2月11日=建国記念の日に岡山県北の日本原で自衛隊基地に反対している地元農民が主催する集会)の直前になって、岡大として参加を準備してきた会議の席上で、西は「地元農民は分裂しているからダメだ」とか「これまでの実弾射撃阻止運動や援農などの闘いは農民救済運動だ」などと、自分たちが全く闘っていないのに現地の闘争を誹謗し、農民の集会に参加する事を非難した。
 さらに6月10日、廃寮阻止全学集会(主催「5・25」実行委=新聞会、北津寮、三里塚・日本原と結ぶ会他)の当時に「共青岡山県委員会」名で出されたビラの文中に「政治的白痴の日共民青以下のマル青同」なるくだりがあり、この「政治的白痴」という言葉が精神障害者への差別・偏見にのっとったものであるとして問題になった。
 これについて「5・25」実行委員で確認会をもったところ西は「これは差別ではない、今後も白痴という言葉を使う」「言葉の言い換えをやるのはブルジョワジーが差別を覆い隠そうとしているのに加担するもの」と間き直り、逆に「お前らが間違っている」「資本主義では差別があるのは当然、差別をなくそうなどとするのは資本主義を延命させる改良主義だ」などと差別撤廃、障害者解放の運動を誹傍中傷してきた。
 この二つの間題は岡大の学生運動を担う部分にとって許せないものであり、「共青とは一線を画す」という声が出て来たのは当然であった。ところが当の新聞会では「会員数が少ない現状では西と村立したら困る」「共青としての西と会員としての西は別」などの理由でほとんど話し合いもされず、結果として西の活動を容認してしまった。そのため寮、結ぶ会などから「共青と一緒にやっている新聞会とは共闘できない」と宣告されたのである。
 この時、新聞会がきちんとした態度を取らなかった事がこんどの共青の台頭と岡大学生運動の混乱をまねいたのである。学内での政治生命を失った共青は新聞会内部でオルグを続け、こうして獲得した昇ら新しいメンバーを、共青である事を隠し、ノンセクトを装って各運勤体に介入させ、自らの路線を持ち込み、ジャマ者は手段を選ばず排除しようとした。
 今年の2・11日本原集会に関してはそれへの参加をめぐって寮生と結ぶ会を村立させようとし、『先峰』紙上には数回に渡って「共青岡大班が寮の日本原闘争を指導した」と手前勝手な記事を載せたのである。しかも昨年と同じく農民と支援の闘いを罵倒しながら。
 また新聞会では記事の批判、編集方針の批判をした土屋に対し個人攻撃を行うことによって発言を封じようとし、さらには「お前みたいなプチブル・闘争破壊分子は殴ってでもわからしてやる」とマル青同ばりの言い分でリンチを加え、「自己批判書」なるものを強要した。
 これら一連の行動が全て共青の方針に基づくものである事は3月中旬に例の日本原をめぐる『先鋒』の記事が明らかになって一挙にハッキリとした。追い詰められた彼らは寮内での共青批判の中心であったOB氏に対し、氏の手紙を他人の部屋から盗み出してはコピーしてバラまく、などの卑劣な反撃を試みたが逆に全面的に孤立し、闘争破壊者として放逐された。残されたのは(I"新聞会」ぐらいなものであろうか。

今後の新聞編集の方向性

 こうして私たちはまた新聞会をゼロから建て直す作業を開始する。いやこの4年間の新聞会活動を、とわけその中から西、昇ら共青に行くメンバーを出してしまった事を総括するならば私たちはゼロ地点よりもはるかに後退したマイナス地点からのスタートを強いられている、と言えるのではないだろうか。
 4年前私たちは「新聞会を学生の情報センターに!」というスローガンをかかげて新聞会を再建した。学生相互の交流の場を創出する事をめざして。
 ところが実際はどうなったか。排他的、セクト的な集団になり下がり、紙面は編集者の意見の押しつけとアジテーションで埋め尽くされた。そこには読者の事などほとんど考えられていなかった。それどころか編集者を読者より一段高い所に置いた「無知な大衆に我々が教えてやろう」という大衆蔑視の姿勢が出て来ていたのではないだろうか。
 これらの反省から今回打ち出した新しい新聞会の編集方針は次のようになる。
○学生とともに歩むキャンパス・コミュニティ・メディアの創出を
−これまでの岡大新聞が軽んじていた学内の情報というジャンルを重視する。私たちが岡大生である限り一つの大衆社会であるキャンパスの情報が必要となるだろうし、それを得ることによって大学というシステムをより自分たちに有利に使う事ができる。
○”新聞の雑誌化”を進める
−発行サイクルの関係で速報性に欠ける学生新聞が新聞というスタイルにこだわる必要はないのではないだろうか。むしろそのワクを取ってしまった方が限られたスペースを有効に使えるだろう。事件の報道についても事後のフォロー、解説と問題提起を中心としたコラムスタイルにして行く。
○読者参加による紙面づくり
−編集者による一方的な意見の押し付けではなく、読者からの意見をどんどん企画に取り入れ、編集者はむしろコンダグターに。また投書コーナーを設けて読者同志での論戦なども。
 新聞会ではイベント情報、ニュース、投書等を求めています。また一緒に新聞を作っていこうというスタッフを募集しています。
 連絡はボックスが使えないので直接左記へ
理学部新館2階界面科学研究室内(昼)
岡山市津島福居****(夜) 土屋 勝
岡山市津島中2-1 北津寮内 綾木信秀