岡大新聞に期待するもの

細谷貞雄(本会顧問)
本紙の再刊三周年、通刊250号発行を機に、本会顧問教官を78年4月の再刊以来務めていただいている文学部哲学科教授の細谷貞雄氏に大学新聞について書いていただいた。なお細谷氏は前任の東北大学でも東北大学新聞社の社長(顧問)を務められていた。

 これは学生新聞というけれども、本来の意味での新聞ではありえない。いわゆるニュースは、この新聞には載らないであろう。なにしろ、一年のうちに5、6号しか出ないのだから。もっとも、新聞を報道新聞と意見新聞に分類するという古典的分類を踏襲してよければ、これは報道新聞ではないという意味において、一種の意見新聞であると言えよう。だが、この新聞が主張する意見がただの意見にすぎなくてもよいと思ってもらいたくはない。それが速報的でありえないがゆえに十分には掲載しえない大量の事実が、そのときどきの意見の支えになってもらいたいものである。そのためには、編集者たる意見記者が、大学内外の出来事と学生大衆の意向をくわしく検討し、すくなくもそれらの本質的な動向と問題点を公平にとらえ、信頼することのできるキャンパス・パブリシティの建設に務めてくれることが必要である。

 私自身はこのサークルの部員ではないから、個々の記事には責任を負いかねる。その責任は全面的に現在の部員の判断にかかっている。これはいうまでもないことだが、それでも上述のような一般的指針を顧問教官の希望として書きつけておくことは許されよう。

 おなじく、私が全面的な責任を負いかねるのは、若い部員諸君があまり重要視したがらない問題! すなわち財務関係の問題である。私は学生新聞に比較的長い間関与してきたので、およそ大学新聞というものの財務的内情はよく分かっているつもりである。連綿たる伝統を誇り、多くのOBをもっている運動部系のサークルとちがって、新聞部はつねにひどい赤字経営であり、公示している一部単価による売上収入は、ほとんどゼロに近い。そこで私は希望したい。部員が進級・卒業という制度のもとにある学生であることを十分に配慮して、各単年度ごとに赤字をのこさぬ決済をしてもらいたい。さもなければ、新入部員の募集を良心的におこなうことは不可能だからである。

 学生新聞はただの同好会ではありえない。いま仲よく協力している部員がそろって学園を去ったあとでも、この名称をもつ新聞部はなくなるわけにはいかない。つねに新しい部員が参加し、養成され、活動することが必要である。ということは、学生新聞の発行に当たっては、いま指摘した財務のほかに、連続への責任ということをいつも銘記してもらいたいということである。大につけ小につけ、連続のないところに文化は存在することができない。実は、この小文のはじめに記したキャンパス・パブリシティの建設ということが、すでにこの連続性を前提条件にしているのである。

 サークルの顧問教官などは、このようなことに超然としていた方がよいのかも知れない。それに、こういう窮屈な説教めいたことを書くのは、どうも好きではない。こういう老婆心を臆面もなくさらけ出すのは、やはり年令のせいかとも思ったりする。しかし、いくら気が進まないからと言って、今はまずそういう点の相互理解から始めたいと思う。

 最後にもうひとつ。私が切に願うところは、あらゆる紙面について自主取材・自主執筆・自主編集の原理を厳守してもらいたいということである。市中の地方新聞が記事の多くを共同通信社から買ってくるのは、それなりに理由のあることだと思うが、学生新聞がこれにならってよいという理由はひとつもない。これは部員だけが執筆せよ、ということではない。わずかな部員数からみても、それは無理な注文であろう。学内の各組織や個人の執筆であって一向さしつかえないのである。私がさけたいのは、学外者への安易な執筆依頼である。取材・執筆・編集における自主性が堅持されるならば、この新聞は紛れもない岡山大学の学生新聞としてのアイデンティティを保持し伝承するであろう。そのような新聞を私はなによりも切実に期待するものだ。まがい物の割りこみやすい事業だけに、なおさらそう希望したいのである。