岡山大学新聞 再刊第2号(通刊237号) 1978年6月30日発行

大学祭の大爆発を

小宮山 剛

 今年も11月になると「大学祭」が開催される、いや、するでしょう。一年生諸君は知らないかもしれないけど実はそんなに大したことではないんです。高校の時に文化祭ってあったでショ。あれですよ。あれを大学生が、もうちょっとお金をかけて、もうちょっと「自由に」やっているだけなんです。「大学祭」と言えば講演会とかシンポジウムとかが沢山あって映画もいならなび展示、バザー…と、キャンパスは「我ら大学生」という連帯感にみちあふれている、飲んで食って笑いこけて考えて泣いて、それをみんなが共有しあっている何かがそこから生まれ出そうな胎動感にあふれている…。 かつてはそういう時もあったようです。そういう時は、盛り上がるのは大学祭だけじやないんです。そういう情況は一年中キャンパスにあふれていて、常に連帯感があって、怒り・悲しみ・笑いといったものを共有しているものなんです。だからこそ大学祭は盛り上がったんです。
 特に一回生諸君、君たちの想像していた大学と現実の大学はどうでしたか。何か閑古鳥の鳴いているような気はしませんか。岡大生とは言うものの見知らぬ他人ばかり。みんな一つにつながっているわけでもない。教官もはなはだしい勘ちがいをして「ポカァ先生なんだ」と言わんばかりの態度。少しぐらいおかしい事があっても、文句を言う声は大きくならない。「でも大学祭ぐらいは、お祭り騒ぎになるんじゃない」と思ってるんじゃないの。でも、やっぱり情況は情況、大学祭もいまのところその延長上にあるんです。芙際の話が。大学祭だけ「岡大ってすっごいなあ」なんてことはありゃしませんよ。
 でも、だからといってそれが、大学祭を大成功におさめることが、バザーのもうけ主義からみんながそれ以上のものをお互いに求めようになることが、不可能であるわけではないでしょう。実際、今まで何回かそのための努力は学友会・大学祭実行委員会によってなされてきた。大学祭というものを参加者全員が共有しようとする努力は続けられてきたのです。それは何も楽しい企画を考えた、ということではありません。75年では、企画団体と討論という討論を重ね、真っ暗闇の中から現在あるべき大学祭というものを模索してきたのです。
 「楽しけりゃいい」というそれでいて何かシラケた言葉からは何も生まれてはきません。それはやがて自分にもはね返るのです。さあ、今年は……大爆発だ。
  (学友会総務委員長)


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