岡山大学新聞再刊1号(通刊236号)1978年4月30日

映画に関する考察

映画研究部 野々村 譲

 私たちは、どんなに醜い過去をもイメージの中において美化し、思い出にしてしまう。
 そして、映像は、それが持つ記録性故に過去を記録することができる。即ち、その意図的に切断された過去を真実であると誤信する場合が多い。映画は絵がなければ映画とは言えない。即ちフィルムである。作家はカメラの限を通して自分の表現したいものをフィルムに焼き付け、それが光を受けることによって我々の眼に届けられる。しかしフィルムは、ある時点のある事物を留めるだけであって、それを過ぎれば過去を偽証する証拠でしかありえない。映像は、それを見ている私たちの心の中において、ある事実として蘇る。したがって同じ映像であっても、その時点で新たな心の動揺を覚えるであろう。
 また、映像は、そのもつ即物性故にイメージを限定する虞れがある。即ち「丸い石」という言葉は、個々人の中で大きさや色等を加えられてイメージを拡げるが、映像において、「丸い石」を表現した場合、見ている人々は、それ以外の石を想像しようとはしない。その意味では映像は想像性を否定してしまっているのかも知れない。これが同時に、映画のもつ消極的要素であって、私たちは何も考えず、ただ目と耳を開いているだけで映画は通り過ぎていく。
 私たちは虚構の世界に侵る。これは決っして現実からの逃避とは言い難い。なぜなら、私たちは積極的に映画に取り組もうとしているのだから。映像は我々の潜在意識を刺激して、自分でも気付くことのなかった世界へ導いてくれる。けれども私たちは、映像的に体験し、たた主人公の心情についていけるだけで満足する。映の中に愛や悲しみの典型を見ることはできても、所詮、映画の中でのこと。
 映画の感動が、自己の体験に基づいて表われる以上、映画は人間形成をするのではなく、自己確認または、啓発的役割を果たすにすぎない。
 素晴らしい映画を見て映画館を出る時、一抹の虚しさに襲われた経験はないだろうか。映画館は時間と空間を超越した世界へ導く夢の館でしかないのではないか。映画は、もはや誰をも救うことは出来ない。
 映画で見ているよりも、それだけの時間に何も出来ないことを辛く思っている方が、素晴らしいし、数千本の恋愛映画を見るよりはたった一度の燃えるような恋を経験する方が、素晴らしいだろう。でも、燃えるような恋なんて、何拠にもありはしない。ただ、私たちは惰性で生きているんだから。(一部割愛させて戴きました。)


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