02/01 UPLINKで映画『三里塚に生きる』を見てきた

渋谷アップリンクで『三里塚に生きる』を見てきた。アップリンクはメイプルソープ写真集を出していたことから、税関検閲違憲訴訟では浅井社長にいろいろお世話になった。ぼくが最高裁で負けた後、浅井さんは自社のメイプルソープ写真集をネタに裁判を起こし、完全勝利に持ち込んだ。

三里塚に生きる

実は、アップリンクの建物に入るのは初めて。1階がカフェ、2階がイベントスペースになっていて、ここが上映に使われた。中は40席ほどで補助椅子を出すほどの盛況だった。意外と若い人が多く、女性も目立った。音楽担当大友良英の知名度?

『日本解放戦線』のキャメラマン大津幸四郎さんが46年ぶりに三里塚を撮った

1966年7月4日、閣議決定で新空港用地が三里塚と決められてから49年になる。映画は60年代からの三里塚闘争を振り返りつつ、当時、闘争の中心だった青年行動隊や婦人行動隊のメンバーが、今どうしているのかを追う。20代の若者たちも、すでに70歳近い高齢者になっている。ほとんどの人が闘争から手を引き、移転を受け入れて余生を過ごしている。だが、自殺した三ノ宮文男さんの遺志や、大木よねさんの決意は闘争に関わった全ての人たちの心に引っかかり続けている。

監督の大津幸四郎さんは68年に、小川プロのスタッフとして『日本解放戦線・三里塚』を撮っている。その後、小川プロを離れ、水俣などに移って社会派映画監督として活動を続けた。それが2012年に太田出版からDVDブック「小川プロダクション『日本解放戦線・三里塚』を見る」を出版するのをきっかけとして、46年ぶりに三里塚に戻ってきた。大津さんは昨年11月に亡くなられたので、この映画が遺作となってしまった。

映画には島寛征さん、堀越昭平さん、萩原勇一さん、椿たかさん、三ノ宮静枝さん、石毛博道さん、秋葉清春さん、柳川秀夫さん、小泉英政さん、山崎宏さんらが登場する。

山崎さんは労活評の現地闘争本部に住んでいる活動家。柳川さんは三里塚芝山連合空港反対同盟(熱田派)の代表世話人として、反対運動を続けている。小泉さんは大木よねさんの養子となってよねさんを支え、よねさんの畑を取り戻して有機農業をやっている。だが、ほとんどの人たちは「元反対同盟」であり、土地を空港公団に売って闘争から撤退している。93年に公団が強制収容の裁決申請を取り下げ、闘争が一段落したところで移転した人も多い。萩原さんはこの中では唯一北原派だったが、98年に北原派を脱退しているので、現在の北原派は一人も登場しない。事務局次長だった島さんは78年の開港後政府との秘密交渉を行って事態打開を図ろうとしたが失敗し、「スパイ、裏切り者」として反対同盟を追われた。

今も重くのしかかる三ノ宮さんの自死

71年10月1日、青年行動隊の三ノ宮文男さんが自殺する。9月16日の東峰十字路戦で機動隊が殲滅され、3名が死んだことで青年行動隊に大弾圧が始まった時だった。

「空港をこの地にもってきたものをにくむ。反対同盟、婦人行動隊、老人行動隊、少年行動隊、そして我らが青年行動隊、がんばってください。
私は、もうこれ以上、たたかっていく気力をうしないました。
なにがなんでも空港をふんさいするまでがんばってください。

母ちゃんへ
長い間苦労をかけました。俺がつかまるたびに、いろいろ心配して、さぞかしたいへんだったでしょう。俺はすまないと思いながら口に出せませんでした。今でも本当に苦労かけたと思っています。空港問題などなかったら、俺も今ごろ嫁さんなんかもらって、りっぱに百姓やっていけたと思います。
・・・
俺が行ったら、あのやぶれた青行の旗で、くるんでくれや。できたら、みんなでみおくってくれ。俺だけ、ずるやってもうしわけない。
三里塚空港粉砕!
最後まで、三里塚に生きつづけて下さい。
みんな、元気で。
1971年9月30日  三ノ宮文男」

石毛さんはその日を振り返り

「若い時って、自分が大丈夫だと思うと他人もみんな大丈夫だと思っちゃうんですよね。だから、俺は絶対ここのところは凌ぐんだ、凌げるっていう風に思っていたんだけど、三ノ宮はそうは考えてなかった」

島さんは

「やっぱり人が死ぬような構造を作っちゃいけない。もうひとつは、人はほんとうに自殺にしても他人からやられるにしても、簡単に死ぬってことですよ」

父親の秋葉清治さんが、土地を売って移転して早々に自宅を放火されたという秋葉清春さん。親たちは表では反対していても、ある意味要領よく立ち回っていたという。

「奴がさ、自分の首にロープを巻く時の気持ちを思うと・・・ だから、うちの親父なんか、三ノ宮が死んだ理由っていうのはわかってないと思うよ。

柳川さんは反対闘争を続けていることについて

「遺書で「生き続けろ」っていう風に言っているからな。ここに生きる、生きられる環境を作れ、ってこどたんべからなぁ、三ノ宮が言っていることはよ。そういうことをちゃんとやれっていうことだべ。だから闘えっていうことを言ったんだよ。そうやって言って、自分は楽になりやがったからよ。三ノ宮はいちばんよかったよ。死んで。楽だよ、野郎。でも、あれをのこされたものだからな。それはまじめに受け止めるしかねえべ」

文男さんの母、静枝さんが初めて文男さんのことを語った。

「俺が死ねば公団も、考えも甘かったんだよ。公団もいくらかあれしてくれっかと、何ていうの・・・ やめるようなことはないと思うけど、そのくらいのことも考えた・・・ 私は憶測だからわかんないけど」

小泉さんはよねさんの遺志を引き継いで畑を奪い返した

三ノ宮さんの自殺の10日前、9月20日は大木よねさんの家が強制代執行された。強制収用はしないという、友納千葉県知事の言葉に騙され、その日よねさんは庭先で脱穀作業をしていた。

突入してきた機動隊はよねさんを脱穀機の下にひきずり倒した。機動隊は盾でよねさんを殴りつけ、前歯が4本折れ、口から血が吹き出した。鬼のような形相で機動隊員を睨み付けた。

EPSON scanner image

代執行の前に、よねさんは戦闘宣言を掲げた。

「せんとうせんげん
皆様、今度はおらが地所と家がかかるので、おらは一生懸命頑張ります。公団や政府のいぬが来たら、おらは墓場とともにブルドーザーの下になってでも、クソ袋とみのさんが残していった刀で闘います。
この前、北富士の人たちはたった20人でたいまつとガソリンぶっかけて闘ったから、ここで頑張れねえってことはない。ここで頑張らにゃ、飛行機が飛んでしまうだから。
おら、七つのときに子守に出されて、何やるって無我夢中だった。面白いこと、朗らかに暮らしたってのはなかったね。
だから闘争がいちばん楽しかった。
もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねえだから、おら、反対同盟さ、身預けてあるだから、六年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきたのだから、誰が何と言っても、こぎつけるまで頑張ります。
皆さんも、一緒に最後まで、闘いぬきましょう。」
戦闘宣言

東京から三里塚闘争を支援に来ていた大学生であった松浦英政さんは、強制代執行後、大木よねさんの養子となり、よねさんの世話をした。実はよねさんは本名が小泉よねで、夫の大木実さんとは内縁の夫婦。だから松浦さんは小泉英政となった。

よねさんは空港内、高速道路の料金所予定地に畑を持っていた。戦後、国から払い下げがあったときに3町歩以下の畑は対象にしないということだったので、町の有力者に名義人となってもらって払い下げをうけていた。
ところがこの有力者が裁判で、自分の土地であり、よねさんに貸していたという嘘の陳述をする。そのため、空港内の畑も奪われてしまった。23年後に国と公団が謝罪し、正式に和解に持ち込めた。
和解の条件は金銭的保証ではなく、敷地内に畑を戻せということ。さすがに高速道路料金所はできてしまっていたが、敷地外ではなく、敷地内に畑を取り戻した。

この日は1971年に開催された屋外ロックコンサートの記録映画『日本幻野祭・三里塚』ノーカットオリジナル版上映があるということで、楽しみにしていた。だが、午前中の上映だったと分からず、見損なってしまったのは残念。

05/12 30数年ぶりに三里塚を訪問

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください