02/03 父の「別れの言葉」

父は「エンディングノート」というタイトルで、死後の希望を書き綴っていました。その中に死後、友人たちに送って欲しいと書かれていた「別れの言葉」という文書があります。葬儀では往復はがきサイズの紙に印刷し、会葬御礼とともに参列者にお渡しし、さらに通夜でも読み上げました。

オリジナルでは献体することになっていましたが、それは却下したため、修正版をお配りしました。ここにオリジナルと修正版を掲載します。

まずはオリジナルです。

お別れの言葉
私は本日、皆様方とお別れいたします。長い間、小生に賜った温かいご支援・ご指導に対して心から御礼申し上げます。

思えば、長い年月、自分にとっては実に恵まれた人生でした。懐かしい思い出でいっぱいです。いつも小生の心をとらえていた”ふるさと”市山への思い(よく山道を歩いた天城の山々、狩野川のせせらぎ、寝床で聞いた水車小屋の音など)、戦災で焼けててしまった八王子の小学校、中学校の思い出(一緒に通った友達、柔道に励んだ仲間たち、数年前から年賀状の交換も途絶えてしまいました)、大学時代の数少ない友人(交信は早くに途絶えてしまいました)、アルバイトで10年近くも務めた米軍基地(現在昭和記念公園になっている広大なスペースが職場、数年前に何十年ぶりかで訪れましたが、すっかり様変わりしていました。朝鮮戦争の最中、初めて連日米軍輸送機に乗りこんで軍需品の輸送に励んだ思い出も)。

その後、大成建設に入社、東京支店の原子力作業所に配属され、当時日本で最初のプルトニウム研究所の設計監理のため東海村に常駐していたニューヨークのニューメック社のエンジニアたちの渉外を担当しました。同施設の完了と同時に同社海外部門に転勤、以後、定年退職まで本社・現地で幾多の海外プロジェクトに関わり、大勢の先輩・同僚・仲間たちにお世話になりました。その当時の仲間たちとの交友関係が、小生の晩年の思い出になりました。

また定年後の楽しみで始めた”ハーブ”の仲間たち(グループ「けしのみ」の女性たち)や小林先生のご指導で楽しいひと時を過ごしたボタニカルアートのグループ「ジニア」の皆さんにも大変お世話になりました。

こうした思い出の中で、80有余年の生涯を送らせていただきました。この人生を終わりに当たり、私は「献体」を実行します。

これは今思いついたことではなく、1998年5月25日に決め、本人と家内が一緒に署名した「臓器提供意思表示カード」を常時携行していました。私の遺体は、その希望どうり、どこかの医療施設に引き取られ、研究材料として生かされます。従って、通常通りの葬式は行われません。遺体が家族のもとへ戻されるのは、1-2年後になります。その時、私は永遠の眠りにつきます。

若し小生のことを思い出してくださることがあったら、シューベルトの「菩提樹」をお聞きになりながら、思い出してください。小生が好きだった歌曲、葬式の時には、ぜひこの歌を奏でながら送り出してほしい、と願っていました。

永い間本当に有難うございました。

土屋 秀雄

そして葬儀でお配りした修正版です。

お別れの言葉

私は本日、皆様方とお別れいたします。長い間、小生に賜った温かいご支援・ご指導に対して心から御礼申し上げます。

思えば、長い年月、自分にとっては実に恵まれた人生でした。懐かしい思い出でいっぱいです。いつも小生の心をとらえていた”ふるさと”市山への思い(よく山道を歩いた天城の山々、狩野川のせせらぎ、寝床で聞いた水車小屋の音など)、戦災で焼けててしまった八王子の小学校、中学校の思い出(一緒に通った友達、柔道に励んだ仲間たち、数年前から年賀状の交換も途絶えてしまいました)、大学時代の数少ない友人(交信は早くに途絶えてしまいました)、アルバイトで10年近くも務めた米軍基地(現在昭和記念公園になっている広大なスペースが職場、数年前に何十年ぶりかで訪れましたが、すっかり様変わりしていました。朝鮮戦争の最中、初めて連日米軍輸送機に乗りこんで軍需品の輸送に励んだ思い出も)。

その後、大成建設に入社、東京支店の原子力作業所に配属され、当時日本で最初のプルトニウム研究所の設計監理のため東海村に常駐していたニューヨークのニューメック社のエンジニアたちの渉外を担当しました。同施設の完了と同時に同社海外部門に転勤、以後、定年退職まで本社・現地で幾多の海外プロジェクトに関わり、大勢の先輩・同僚・仲間たちにお世話になりました。その当時の仲間たちとの交友関係が、小生の晩年の思い出になりました。

また定年後の楽しみで始めた”ハーブ”の仲間たち(グループ「けしのみ」の女性たち)や小林先生のご指導で楽しいひと時を過ごしたボタニカルアートのグループ「ジニア」の皆さんにも大変お世話になりました。

こうした思い出の中で、80有余年の生涯を送らせていただきました。

若し小生のことを思い出してくださることがあったら、シューベルトの「菩提樹」をお聞きになりながら、思い出してください。小生が好きだった歌曲、葬式の時には、ぜひこの歌を奏でながら送り出してほしい、と願っていました。

永い間本当に有難うございました。

平成25年1月
土屋 秀雄

「”ふるさと”市山」とは、父の両親が生まれ育った天城の山中、現在の伊豆市市山(いちやま)のことです。私は50年前に父に連れられて泊まりに行きましたが、「去年、ようやく電気が通った」という田舎でした。父と再訪することはかないませんでしたが、近いうちに訪れてみたいと思っています。

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