01/29 父の葬儀

このところずっとブログを更新してませんでした。22日に父が亡くなり、葬儀までの1週間は自宅と実家の往復で仕事も手に付かず、ブログを更新する気にもならなかったのです。ようやく落ち着いて普段の生活に戻ってきたところです。

父は1928年2月27日生まれ。享年84歳と320日余りでした。秋までは毎日のようにスポーツジムに通ったり、船旅を楽しんだり、植物画のサークルに参加するなど余生を満喫していました。最近は新年会、誕生会、結婚記念日など何かと理屈を付けては家族6人で集まり、食事をしていました。仲の良い夫婦、仲の良い親子・家族だったと思います。

11月に会った時、風邪がいつまでたっても治らないと言ってたのが予兆だったのかもしれません。11月末の定期検診で赤血球・ヘモグロビンの値が通常の半分以下になっていることがわかり、すぐに北里大学病院を紹介されました。

当初、症状は再生不良性貧血と聞いてました。再生不良性貧血は完治の方法はないものの致命的な病気ではなく、輸血でしばらくは元気を取り戻せます。スポーツジムや植物画サークルはお休みしてしまいましたが掃除、ゴミ捨て、庭木の世話といった日常生活は変わりなく続け、元気な日には駅まで買い物に行ったりもしていました。

元旦に私たち夫婦・弟夫婦と6人集まって恒例の新年会を開いた時も、息苦しいときがあるとか、足がむくんでしまったとぼやきつつも、そこそこ元気そうでした。ただ、大事をとって父の実家での新年会は欠席することとしました。

21日の夜、急に具合が悪くなり、2階の寝室に上がるのも無理だと母から電話がありました。その時、父も電話に出て少しやりとりをしたのですが、さすがに息苦しそうでした。いずれにしろ翌22日は病院に行く日なので、そこで輸血してもらうこと、入院したいことを伝えると言ってました。

意識不明・心停止

弟に連絡を取ったところ、父の病気は再生不良性貧血ではなく、骨髄異形成症というもっと重篤な病気であり、平均余命が0.4年から1年伴程度しかないということを始めて知りました。骨髄細胞に異変がおき、赤血球、白血球、血小板がまともに作られなくなってしまうのです。一種のガン、白血病の前段階に相当します。若ければ骨髄移植で治すことができますが、80代では無理。来年の新年会を父と迎えるのは厳しいかもと。赤血球が減ったことで酸欠となり、血小板が減ったために内出血し、一番怖いのは白血球減少で抵抗力が落ち、感染症の危険が高まることです。

その夜中の1時半ごろ、父が倒れて病院に搬送されたという連絡が入りました。すぐ飛び起きて妻と車で病院へ向かいました。12時半ごろトイレに起きた後で倒れ、意識を失ったというのです。やがて弟夫婦も駆けつけ、担当医からの説明を受けました。病院到着時には心臓が停止し、強心剤を打ってとりあえず心臓を動かしているけれど、それほど持たない。少なくとも意識が回復することはないだろうと。

面会した父はさまざまな管やセンサーが取り付けられて、ベッドに横たわっていました。まったく反応はなく、バイタルモニターの血圧表示が徐々に下がっていきます。母が父に取りすがって「みんな来ています、返事をしてください」「帰ってきてください」と泣き叫びます。ぼくは父の手を握りました。血流が少ないので冷え切っていたけれど、柔らかい手でした。父の手を握ったことなんて、何十年ぶりでしょう。

時間とともに血圧は下がり続け、脈拍もだんだん減ってきました。朝になり、血圧が40、30、20、10と下がり、一桁に。ついに8時14分、父の心臓は動きを止めました。

葬儀をどうする

父は数年前から生前整理を始めていました。一部屋を占領していた蔵書は処分し、土地や株式など財産目録を作り、遺言状も書いていました。困ったのは遺体は大学医学部の解剖実習用に献体するように、と言っていたことです。献体の場合遺体はすぐ大学医学部に運ばれ、帰ってくるのは2、3年後になってしまうといいます。それから火葬することになるのですが、母が今の時点で遺体がないのはとても耐えられない、自分が2、3年後に生きているかどうか分からないと拒みます。献体登録まではしていなかったのでここは父の遺志を無視し、普通に家に連れて帰って通夜・葬儀を行うこととしました。

さらに葬儀のやり方もやっかいでした。メモには「戒名は不要」「香典・供花はお断り」となっています。つまり仏教式の葬儀ではないということ。これは無宗教方式とし、参列者には献花していただくことになりました。香典お断りについては、自宅に直接持ってくる人がいるので、その方への香典返しなどかえって手間が増えてしまうだろうという反対意見もありましたが、東京でそこまでやる人はいないのではないかということで、香典お断りは貫くことにしました。

もう一つ問題は火葬場が空いてなかったことです。火葬の日程が取れたのは1週間後の29日。そのため、通夜が28日、告別式29日となりました。本来、亡くなった後は怒濤のスケジュールで悲しみに浸っている時間さえなく過ぎ去るものですが、妙に時間が開いてしまいました。私たちと弟夫婦が交代で実家に泊まり込み、母の相手をしてしのぎました。母の妹二人も都内在住だったので、昼間は毎日のように来てくれたのも助かりました。

通夜と告別式

28日、通夜が行われました。祭壇には父の遺影と父が描いた植物画が飾られました。会社の同僚をはじめ、リタイヤ後に始めた植物画サークルのお友達、地域の方が大勢参列してくれました。私の仕事関係、趣味関係の仲間も駆けつけてくれたので、親戚を入れて90人近くなり、途中であわてて椅子を運び込むほどでした。

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通夜では喪主である母に代わって、長男であるぼくが代表として挨拶し、「別れの言葉」を朗読しました。これも父が昨年の夏に書いたもので、生い立ちから最後まで、残った人たちへのメッセージでした。本当は献体のことが出ていたけれど、それはばっさり削除してしまいました。ごめんなさい。

そして父の好きだったシューベルトの「菩提樹」をBGMとし、母から順番に献花を行いました。

翌29日、告別式が営まれました。こちらも参列者による献花で送ります。告別式の後、霊柩車は自宅近く、そして通っていたスポーツ施設の前を通って火葬場へ向かいました。父はもっと身体を動かしたかったことでしょう。

今回の葬儀はイレギュラーなことが多く、葬儀社と相談しながら準備をしました。時間が取れたのでなんとか間に合ったという感じです。通例と違った葬儀を希望する方は、事前にきちんと企画書を書いておくぐらいが遺族に面倒をかけなくていいですね。目下の悩みは墓をどうするかです。

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