04/14 『高校紛争 1969-1970』

  • 『高校紛争 1969-1970 「闘争」の歴史と証言』
  • 小松哲夫著
  • 2012年2月25日発行
  • 中公新書
  • 定価 本体680円

前のエントリーでも書いたけれど、ぼくは1972年の4月に中央大学附属高等学校に入学した。本書でも巻末の年表に名前だけ出てくるけれど、中附でも1969年10月にバリケード封鎖が起きている。wikipediaによれば

1969年10月27日 – 「反戦系」の生徒が午前3時から校舎にバリケードを築き学校を占拠。学校当局は警察を導入、多くの生徒は逃走できたが3名が補導の形で検挙される。

ということだ。この箇所だけ読むと闘争は敗北したかのように思われるが、その後も継続的に取り組まれ、71年には

1971年7月20日 – 学内の自由化達成 制服・校則全廃。国歌斉唱国旗掲揚等の形式的式典の廃止。伊津野正校長が同日の終業式で自由化決議承認を全生徒に通告。

と自由化を勝ち取っている。たぶん詰襟学生服を着て投稿したのは入学式から2、3日ぐらいのものだった。後はジーンズにスニーカーというスタイルで、髪の毛を肩までのばし始めた。

当時、同級生に麹町中学出身でブント戦旗派の元メンバーが留年していた(つまり、麹町中学全共闘の保坂展人さんと同期)ほか、上級生には反帝高評、共労党赤色戦線派といったセクトの活動家もいたけれど、すでに学内では何もやっていなかった。高校で制服廃止、頭髪自由化が実現してしまえば、一般生徒にとってほとんど不満はなくなる。闘争は終わっていた。

だが、全国的に見ればこのように生徒側の主張が取り入れられ、生徒と教師が一体となった例というのは、極めて稀なのだ。たいていは生徒の主張は無視され、教師に対する不信感が高まり、どんどん衝突がエスカレートしていった。そして停学や退学といった処分、バリケード封鎖、力づくでの封鎖解除と泥沼化がもたらされた。

本書では、バリケード封鎖解除に機動隊が導入され、火炎瓶が飛び交った都立青山を初め、都立日比谷、灘、掛川西、都立立川など激しい闘争と過酷な処分が下された高校の事例、そして当時の活動家や教師たちの現在を追っている。

たとえ力で抑え込むことに成功したとしても、双方に深い心の傷を残した。

さまざまな抑圧が働き、中途半端な状態を強いられている高校生という存在にとって、69~70の闘争が突きつけた課題は今なおくすぶったまま宙ぶらりんになっている。今の高校生たちは、学校に対して怒ったり、表立って異議申し立てをしなくなっているけれど、矛盾はいつか出てくるのではないだろうか。

ところで本書に出てくる人物に、40年前に遭遇している。立川高校を退学になり、大成高校から慶應義塾大学に入った横山淳さんだ。入学直後に三多摩高校生共闘会議という、一応ノンセクトだけど実際は反帝高評の下部組織というグループの会議が一橋大学の社研部室で開かれた。そこにOBとして来ていた横山さんと話をしたことを覚えている。横山さんはその後、75年に解放派全学連の委員長になっている(北見委員長)。近年は学習塾を経営していたが、2008年に病没したそうだ。

登場人物に関して問題なのは都立小石川のML派活動家で、現在は新城市長である穂積亮次のこと。穂積は1975年5月25日にマル青同(マルクス主義青年同盟)最高幹部として岡山大学北津寮を襲撃し、大沢君を殺して逮捕された。「刑務所から市長へ」というタイトルで穂積を取り上げているのだけど、そこで寮襲撃事件を「1975年、マル青同は岡山大学で対立するグループとの間で死者を出す衝突事件を起こした」と書いている。

「対立するグループ」との「衝突事件」ではない。生活の場である学生寮を革命の拠点にすると乗り込み、当然ながら反発した寮生に暴行を加え、大勢に重軽傷を加えて1回生の大沢くんを殺したのだ。いくつかの書籍で「内ゲバ」「衝突」と書かれているのをそのまま引き写したのだろうが、岡大学生運動史でも読んでくれれば、一方的な武装襲撃だったことが分かるだろうに、残念だ。

「04/14 『高校紛争 1969-1970』」への4件のフィードバック

  1. 昨日、穂積亮次のWikipediaに異変が起きました。その事件の記述が消されたうえ、編集者はブロックされてしまいました。一体どう言うことなんでしょうね・・・

    内ゲバ扱いしていない書籍があれば教えていただけないでしょうか。

  2. 履歴を見ると編集合戦になったようですね。
    現在、管理者となっているLos688氏は「新聞社系・週刊誌系・政党系のサイトによる情報確認できない」「前科はプライバシー案件である」ということで履歴を非公開にし、編集保護をかけています。
    42年前の事件なので、現在のメディアサイトには記事が無いかと思いますが、当時の新聞、1999年1月3日の朝日新聞、2006年3月の文春など公的な情報源は山ほどあります。
    また、穂積は市長という公人なので、Wikipediaの存命人物の伝記でも
    「ある記述や事件が有名で本人の業績にとって重要で記載するに値するものであり、信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されているものなら、たとえ否定的なもので当の本人が嫌がろうと、記事に含めるにふさわしいでしょう。」
    と書かれており、非公開にすべきではありません。
    5・25を内ゲバではなく、マル青同による襲撃と書いた書籍があるかどうか、今すぐにはわかりません。
    ここには、たぶんWikipediaと同じ内容が残っています
    http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%95%e4%90%cf%97%ba%8e%9f/1/
    今年の5月連休には大沢君と同期の世代が中心になって学生寮の同窓会が岡山で開かれ、大沢君の慰霊碑にも行ってきました。

  3. どうもありがとうございました。文春の記事については知らなかったので調べてみましたら、がんばろう日本のTによる反論を見つけました。http://webcache.googleusercontent.com/search?cd=1&client=opera&ct=clnk&gl=jp&hl=ja&q=cache%3AWzFRbgQvCFQJ%3Awww.ganbarou-nippon.ne.jp%2Fbunsyun.html+
    それにしても大沢さんへの思いやりが全く感じられない文章ですよね。

    あの消された箇所は、goo wikipediaにまだ残っていたということで早速保存。助かりました。

  4. 管理者による編集凍結期間が終了したので,さっそく北津寮襲撃事件に関する記事を追加しておきました。
    朝日新聞記事データベースに1990年1月3日の記事が公開されていることを確認し,出典を明示,内容も記事に沿った抑えたので削除されることは無いと思います。
    前の記事を読むと,書いた人は地裁や高裁の判決内容も把握していたようです。刑事裁判の判決文を第三者が入手するのはほとんど不可能なようで,どうやって調べたのか興味があります。

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