岡大学生運動史

これは「1984年度新入生歓迎オリエンテーションパンフレット」(岡山大学学友会発行)から転載しました。明らかな誤字は修正してありますが、基本的にはパンフレット掲載のままの内容です。また、データ入力時に加わった誤字があるだろうことを最初にお断りしておきます。

『岡山大学学生史』のサイトがオープン

1994年岡大体育会総務を勤めた黒田さんが、当時の体育会パンフレットに掲載した「今だから明かす 学友会解散の真実」を加筆修正して"学友会解散「永続する学園紛争の拠点」の崩壊の軌跡"として公開しています。
特に土屋卒業後の学友会分裂、体育会結成、原理研の加入、学友会解散、校友会設立について詳しいです。

イールズ来岡<1949・11・11>
自治会結成<1950・1・14>
予備隊接収反対闘争<1950・10〜1951・2>
法文人事問題<1951>
CIC事件<1951・11・21>
4・18破防法反対スト<1952・4・18>
処分撤回闘争
馬場課長(学生部)解任闘争と届出制度の獲得<1953・5>
運動の停滞期<1953〜56>
運動の再生と安保闘争<1956〜60>
'60安保闘争
自治会連合会の結成<1961・7・3>
再度の停滞<1962〜1964>
「日韓条約」闘争で再生<1965>
10.21ベトナム反戦闘争<1966・10・21>
11・8エンプラ闘争<1,68・1‐18>
試験中の自治連公認可闘争<1968・2・20>
岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17>
11月安保決戦,糟谷君虐殺される<1969・11・13>
教官処分粉砕闘争<1970・3〜8>
寮闘争の高揚<1970〜>
坂本処分粉砕闘争<1973・5〜7>
「マル青同」寮襲撃 大沢真君虐殺 <1975・5・25>
趙得勲君スパイデッチ上げ事件<1975・12・12>
農薬空中散布阻止闘争<1976〜1978>
反動教官目瀬による退寮策動糾弾闘争<1977・4〜12>
4・20通達−5・1学長告示糾弾闘争<1978・5>
廃寮攻撃粉砕闘争<1980〜>

 200数日間に渡って,軍国主義の基地=津島第七師団の敷地を占拠し,ついに反戦と真理の砦=大学のキャンパスとして勝ちとった六高の学生を中心とした767人は,1949年7月28日第一回入学宣誓式を行った。
 この日から新制岡山大学の学生史は始まるのである。この一期生の新らしい大学を自らの手で造り上げてゆこうという熱意とエネルギーこそがその後の岡大の学生運動の伝統を作る上に大きな位置を占め,この一期生の運動があってこそ今日の岡大の学生運動の基礎が作られたといって過言ではなかろう。
 しかしその当時の内外の情勢は,きびしかった。当時の日本を支配していたのは,アメリカ占領軍であり,当時の「大学の自治」といっても旧帝大の「象牙の塔的アカデミズム」でしかなく,新制大学に於いてはほとんどGHQ(占領軍)の支配下にあり,その後のレッドパージ(赤狩)がなされていったのである。

イールズ来岡<1949・11・11>

 進歩的教官を大学から追放すべく全国の大学を巡回していたイールズとタイパーは,遂に岡山大学へも来た。しかし東北大学を始めとして,全国の大学に於いて,学生運動によって完全にイールズをシャタアウトし,パージを許さなかったように,岡大に於いても一期生は,反レッドパージ闘争に立ちあがり2・1ストを弾圧された労働者の大量追放を許してしまったのに比し大学のパージは学生運動によって阻止された。しかし当時高楊していた学生運動をつぶすべく,タイパーは各大学に第二自治会を次々と作らせていった。この結果ほとんどの大学において学長を会長とする学友会組織が作られてゆき,岡大もその例外ではなかった。

自治会結成<1950・1・14>

 タイパーの命令に反対して岡大では法文自治会を中心に他の学部も続々と自治会が作られこの日,全学部の自治会の統一組織として,自治会中央委員会を結成し,その後の学生運動を担っていった。

予備隊接収反対闘争<1950・10〜1951・2>

 当時,朝鮮戦争を用意していた米軍部と日本の政府は,アジア人はアジア人で戦わせる方針から日本に,警察予備隊を作った。この予備隊の基地としての岩国GHQは,岡山は元師団のあった津島の敷地(考えられたのは今の農学部と教養部)をあてようと企てていた。これを知った岡大の学生は猛烈な反対運動をおこし,この運動の盛り上りの中から今の学生歌(我らの学舎を守ろう/)の歌が当時法文の学生であった三沢氏によって作られた。この学生の運動によって予備隊は,日本原になり津島のキャンパスは難をのがれたが,岡山市の治安のための駐屯地として三野と半田山の後半分を予備隊にとられてしまった。

法文人事問題<1951>

 良心的な4人の教官の転出をめぐって第一次,第二次の,黒い,人事が問題となり,法文学部自治会は,これを不当として運動をおこし「法文を良くする会」などが作られた。

CIC事件<1951・11・21>

 当時新聞会員であった木村氏が突如としてCICにつれていかれ,様々なデマをでっちあげられ監禁された事件で600名の学友の力で奪還した。

4・18破防法反対スト<1952・4・18>

 教育のグランド,法文の大講堂が竣工された1952年は,岡大の学生運動は,いわゆる第一高揚期を形成する。それは,朝鮮戦争を媒介してのし上った日本独占資本は,自己の階級維持の最大支柱「破防法」を全国に上呈したのである。岡大ではこの年始めて,1年生から4年生までそろい自治会の最も熟実した時であった。そして,この破防法に反対して,入学式を終えた早々4月17日に全学学生大会を圧倒的に成功させスト権を樹立し,次の日4・18全学ストを全国に先がけておこなったのである。しかし4月18日学生部はきびしい弾圧体制をひき,集会の会場にカギをかけるなどをしたが1,000人以上の学生の力によってこのカギをぶち破りストを成功させた。これにならって4月28日全学連は全国大学ゼネストをよびかけ,全国的な破防法反対闘争を展開したが,GHQによって右傾化されきった労働戦線が闘えず破防法をついに許してしまった。

処分撤回闘争

 全学連の4月28日ゼネストに呼応し岡大も又立ち上ったが,これらの破防法闘争に対して学生部は責任者6名の処分を発表した。学生側はこれに対し5月1日のメーデーまでに,ハンストなど含む様々な撤回闘争を続け,ついに処分についての全学投票にもちこみ,その結果90%以上の学生が撤回を要求していることが判明し,当局も処分を撤回せざるをえなくなり,学生による処分撤回闘争は成功した。

馬場課長(学生部)解任闘争と届出制度の獲得<1953・5>

 この年のメーデーはいわゆる「血のメーデー」といわれる警察の発砲などの弾圧があった。岡大からも破防法処分撤回闘争などで盛り上った学生連動を反映して300名近い学生がメーデーに出た。しかしその頃から学生部の弾圧がはげしくなり,はり紙をすべてはいだ。それに対し学生側は夜警などしてその本人が当時学生部長であった馬場課長であることを発見し,これを契機に大学の民主化闘争に入り,課長解任,掲示の自由,団体結成を「許可制」から「届出制」にするなどを勝ちとった。

運動の停滞期<1953〜56>

 反レッドパージ,予備隊接収反対闘争,CIC闘争,破防法闘争と果敢に闘いを組んで岡大学生運動史の第一期高揚期を形成した岡大一期生は,岡大最初の卒業式によって社会に出ていった。これ以後,全円の学生運動と同様,岡大の運動も,正しい理論と指導者の不足によってマヒし,自治会の執行体制が組めなくなり,教育学部の自治を先頭に次々と崩壊していった。これにかわって盛んになったのはサークル活動で,うた声組織が様々に作られていった。これは全国的状況で,自治会は政治課題をとりあげるべきでなく,みんなの身近な要求をみたすべきであるという自治会サービス機関論に転落していった。

運動の再生と安保闘争<1956〜60>

 全国の大学の学生運動が「サービス機関論」によって全く運動が停滞しきっている時,1956年1月23日東大教養学部自治会は,何ケ年ぶりに学生大会を成立させ,当時国会に上程されようとしていた国立大学授業料値上げ反対闘争のための2・2デセを決定した。当日は,東大2,370名を中心とする全都4,000名の学生が決起し,久々の大デモンストレイションを展開したのである。これによって全国の学生運動をおおっていた低迷を霧散させた。そして4月ひらかれた全学連第8回中央委員会は,七中委路線を明確に批判し,方針は身の回りの要求からでなく,情勢分析の中から出すべきであり”正しい情勢分析を基礎とし明確な方針を全学生の前に大胆に提起してゆくならば必ずや学生は闘いにたち上がるであろう”と呼びかけた。それ以後小選挙区制,教育三法に対する4−5月の闘争の巨大な高揚を経て全学連第9回大会を迎え,次の砂!1I,勤評そして戦後の第二高揚,”安保闘争”をむかえるのである。この全学連による影響は,全国の大学の自治会を目ざめさせ,岡大でも'53に崩壊した自治会は1956年ごろより再建の機運がもり上り,1957年12月法科学生会を先頭に次々と自治会が再建され1958年に岡山大学自治会協議会という各自治会の連絡組織が作られ,警職法,勤評,安保闘争を闘った。

'60安保闘争

 岸内閣は,アメリカ帝国主義のさしがねによって,アイゼンハワー来日までに新安保条約を批准するために,5月19日,20日の暴挙−無法不当きわまる会期延長と岸一派だけの単独採決をおこなった。1960年5月16臼の国会の写真を,私達は忘れられない。議事堂の右翼団と警官,マイクにしがみつく,清瀬議長!それは生々しい痛みとなり,怒りは爆発した。それから1ケ月,日本は嵐の中にすごした。平和と生活を保障するため,労働者が,学生が,市民が立ち上った。が,それより1年問以上も前から,この安保への闘いは,前衛的な人たちによって地道に盛りあげられていたのだ。一年半にわたる安保反対の闘いを,私たちの闘いを中心に,その欠陥と成果をありのままのべよう。

<12・10にむけて>

 安保条約とは何か,その改定が何を意味しているのか,一一という学習が1959年の夏から秋にかけて,自治会や一部サークルにおいておこなわれていたが,破防法以後後退をよぎなくされた岡大の各学部自治会は,活動家がほとんど1‐2年生でしかなく,闘いに立ち上るには困難をきわめて,全国的に闘われた10月11口の統一行動には,抗議集会をもった位で,徹底的に立ちおくれをみせた。その私たちにとって,11月27日の全学連の国会突入のニュースが伝わった。−−11月27日,安保条約改定交渉の即時打ち切りを請願するデモ隊は国会に突入した。それは,安易な生活の中に埋没していた学生にとって,非常に大きなショックを与えた。法科,教育,農学部,医学部の各自治会は連絡協議会をもち,話し合い,年内に出発するといわれていた岸の渡米を阻止するため,12月10日の統一行動にとりくんだ。1週間クラス・オルグ,研究室討議がくりひろげられ,当日は300名の学生が街頭でデモに加わり,前年度の警職法をうわまわる闘いとなり岡大としては近年にない多大な成果とし評価された。しかし,その闘いは,11‐27に触発された一揆的な性格のものにすぎなかったことが,指導部の自然解体と運動の停滞となってあらわれる。

<長い停滞期>

 12月10日以後,正月休みもあり,安保闘争は再び停滞をはじめる。それは,安保問題が各学生に理論化されないままに終った。新らしい年になっても,学生の中には,岸渡米の目的の最終決定とともに,ある焦燥感は当然あり試験が近いとはいえ,立ち上れる条件は十分にあった。しかし,自治会連絡協議会と文芸,わだつみ,児文,歴研,新聞等のサークルからなる共闘会議は,解体しており,自転車行進といった,日和見主義に堕落し,学生大衆のエネルギーは粗織化されずにおわった。が,この頃,東京では全学連の羽田空港座りこみの,いわゆる1・16ハネダ事件がおこっていたのだ。1月20日,日米安保条約は調印される。長い停滞期の中で,挫折している岡大学生運動の現状を鋭く光滅する活動家が,それでも少しずつ成長していた。その一つの動きが,文科自治会結成への活動であった。2月13日に仮結成し,4月27日第1回総会を開き,正式発足した。4月26日安保衆院通過の予定と自民党は表明していた。4月15日から25日にかけて,第15次統一行動がくりひろげられ,東京では請願デモが国会に波状的におくられていた。26日,岡山市での安保反対県民大会がもたれ,20人たらずの学生が,自治会に組織されないまま,公会堂に集まり,駅前まで,気勢の上らぬ「国際学連」をうたって歩いた。「中間報告」の強行による新安保成立は100,000万人の請願や,彼ら内部の矛盾とあいまって一応挫折し,きたるべき5・19を迎える。メーデーに対するよびかけも自治会は組織しえず,ゼミナール中心主義のナンセンスな誤謬を重ね,メーデーのビラは文芸部と演劇部からまかれた。そして,4学部連絡協議会がもたれたのは,工学部入学式に松田大臣をむかえるにあたり半年ぶりに5月7日開かれた。ここで松田文相に対する質問状を作製し安保や文科全廃論等について入学式上において究明することに決定した。しかし,文相が会見時間を与えたため,入学式には講堂をうめた学生が,この反動大臣を拍手でもって迎えるというナンセンスな失敗をおこなった。こうした中で,自己批判とともに,自治会協議会は,安保闘争に本格的にとりくみ,強烈な抗議集会をもつことにし,その日を5月21日に決定した。

<決起した全学生>

 5月12日以降,毎日,ことなった種類のビラを配布し,また同時に徹底したクラス討論を自治会は開始した。ポスターは掲示板をうめ,伝達は立木にはり,食堂前と一般教養正門には,闘争速報を出した。暴力で単独採決は強行された一一ときに5月20日午前0時6分。5月21日上曜日,快晴。自治会協議会では,最初の予定通り,朝の9時からの抗議集会を実行した。怒りにもえた学生は,法文学部大講堂を一杯にうめ,入りきれない学生は表庭にあふれた。情勢分析,活動方針,抗議電報報告等がおこなわれ,午後から街頭行進に移った。5列にならんだ1,000名近い学生は長い行進をはじめる。1年生や女性が多く,ほとんどがはじめてのデモ参加者であったが,柳!1I,郵便局前では激しい蛇行デモが何回となくくりひろげられた。田町公園で県民集会に合流したが,労働者は100名たらずであった。そこから大供の十字路を回って岡山駅まで,再び激しいデモをおこなった。21日の抗議集会は岸内閣の無謀な安保強行審議への怒りに火ともえた岡大生1,200の参加のもとに盛大におこなわれた。当日の授業はほとんど実質上不可能となった。集会に参加した学生は平生登校者数の8割から9割をしめ,大学生の政治感覚の敏感さと意識の高まりを反映した。集会では「政府,自民党は,官の暴力に守られて安保採決と会期延長をきめ,民主主義と国会のルールをふみにじった。われわれは安保阻止,破棄の闘いを強力に進める」の決議を万雷の拍手でもって可決した。午後からは800名をこえる参加者による整然たるデモを行い,岸政府に対する抗議を市民によびかけた。岡大生の5・21の歴史的,英雄的な闘争は偉大なる勝利であった。…・略翌日の自治会のポスターが,その感激を伝えている。私たちは更に前進するのだ。
 5・26には東京に代表4名を派遣した。
 6・4の労働者のストライキに呼応した闘いも,雨天にかかわらず,5・21をうわまわる動員をみた。会場には,新聞記者がつめかけ,テレビのアモイはジジジという音をたてて2,000名近い学生を写す。
 汚職で儲け/暴力で儲け/そして安保で稼ごうとするガメツイ男−−岸
 瀕死の民主主義−−殺し屋の岸
 売国奴岸殺しちまえ
 国会即時解散
 この日は,自民党県連に抗議し,さらに県庁にと岡山市のメインストリートを行進した。プラカードがそれぞれ創意をこらして,めっきりとふえた。6月11日,開学はじめての,教官,事務職員,学生と,全学あげての抗議集会がもたれた。
 岡山大学教官団−−民主主義を守れ
 教官を先頭に,表8カ町を,市民の拍手の中を整然とした行進をおこなった。
 5月15日,授業放棄,抗議集会。駅前小集会に参加後,自民党,県庁に抗議デモ。

<樺 美智子殺さる>

 「女子学生が殺された」という報は異常な衝撃を与え,たちまちそのニュースはひろまり15日夜半,緊急活動者会議がもたれ,男子を中心とした強固なピケ隊が組織され,翌16日朝から,全学の門という門は学生の手によって,ピッタリととざされた。ただ,学生は法文学部の門より,講堂を埋めつくし,自治会よりの農村署名の提案と,街頭デモとの討議を行い,農村署名に全員参加することを決定した。貸切バスの列がつづいた。そして,100,000万円近いカンパでもって東京に10数名の代表団を派遣することができた。ハガチー事件がおこり,アイクの訪日は阻止されていた。代表として東京に行った岡大生は,国会正門前に徹夜して座りこみ,無言の抗議をつづけた。
 6月19日,参院の議決をへないままで「新安保」は自然承認された。そして,今なお続いている。安保破棄闘争がはじまった。
 6月22日,再びストライキを岡山大学では決行,岡山駅からカバヤにかけて,岡山はじめてのフランス・デモをおこない,のち街頭カンパをつのった。
 6月29日,岡大食堂前の闘争速報をみていた私服,官が学生を逮捕。全国民の前に,警官の恥ずべき行動を露呈した。
 7月2日,安保破棄集会。集合500名。デモは100名ほどで西署に私服刑事事件の抗議にいく。県民集会の労働者と合流した。

<苦しく長い闘いは始まる>

 闘いは急速に収剣していった。自治会では夏休みに帰郷運動をおこなったが,それへの参加者はのべにしても100名ほどにすぎなかった。しかし,安保闘争高潮の岡山大学の組織率は全国的にも群をぬい高率であった。その事は広く知られ,他大学の刺激となった。帰郷運動をへて二学期の闘いは,安保体制を実施していく中でおこった。浅沼束I!事件に対する抗議をもってはじまった。そして,それはさらに,総選挙をへて,61年1月20日の,国鉄運賃値上反対,米軍のラオス出動反対,新島基地ミサイル化反対闘争をもった。さらに3月1日,ビキニ・デーには広島に代表10数名が参加し,全学連組織のたてなおしの一手段として,中国学連結成に努力し,2日に準備会結成に成功した。そして,安保闘争後は継続して活動していた岡山大学自治会連絡協議会を発展解消させ,自治会連合会の正式発足に成功したが,その成立の間でも,学校当局のしめつけはきびしく,規約受理を作為的におくらせ集団結社の自由さえ犯される傾向がある。安保闘争後の急速な冷却期間にみられた,自己主体の挫折も,その挫折した地点をテコとして,多くの人がその闘いのエネルギーを論理化している状態が現在である。かって,いわれた,ムードでデモに参加したのではないのか,という言葉は今ではきかれない。安保破棄を宣言した私たちの決意は,その底辺をささえる意識において,エネルギーを内にひそめてくすぶりつづけているのだ。
 時を作りながら,時をまっているのだ。そして,その時は近い。
 自治連誌「学生の声」M1より抜粋

自治会連合会の結成<1961・7・3>

 1,000人以上の集会,デモを再々組織した自治会協議会は,全学自治会への第一歩として単自加盟制の自治会連合会を結成し,その前文に「我々の活動は常に内外の情勢を規定する諸条件の分析にもとづいて方針を導き出し民主的討議による決定にもとづいて活動をすすめる」と唱い八中委九回大会の路線を継承した。この安保,政暴法闘争が岡大第二高揚期となる。

再度の停滞<1962〜1964>

 安保,政暴法闘争の中で分裂した学生運動は,岡大にも判然と現われ,各党派の闘争が中心となり東京に於いても1.000のまとまったデモはみられなくなった。岸に代って登場した池田内閣は,「大学管理法案」を国会に上程した。これには関西の地方学連を中心に猛烈な反対運動が組まれ,岡大に於いて自治連が弱体のため「共闘組織」が作られ70人〜100人規模の集会デモをかちとった。しかし'63は集会,デモ1も組織しえず停滞のどんぞこの状態となった。'64には,7月3日憲法調査会の最終答申がなされ岡大では2年ぶりの集会,デモが70名程度でなされた。その秋原子力潜水‘が佐世保に寄港し岡大からも30名程度,佐世保,横須賀,神戸の全国行動に参加した。

「日韓条約」闘争で再生<1965>

 池田の高度経済成長はついに,アンバランスな経済構造を助長した。即ち鉱工業生産の世界で3位にまでのしたが,国民の1人当りの所得は22位,その結果国内市場はあぶれ,必然的にアジア,特に韓国へ進出しようと急激に韓国との接近を示し,国会に於いて40秒の早さで「日韓条約」を結んだ。この暴挙は,成長しきった日本資本主義の巨大な力を示すに充分であった。これには今まで静かだった学生も立ち上り,夏休み以後各クラスに作られていた「日韓条約研究会」が行動隊となり自治連の集会として久々に200名を結集した。クラス研究会,クラス討論,クラス決議などのパターンが岡大に登場したのはこの時からである。又機動隊がヘルメット姿でデモの弾圧にかかり出したのもこの日韓闘争の時であった。

10.21ベトナム反戦闘争<1966・10・21>

A  '65から始まった米軍による北ベトナム爆撃は益々はげしくなり,ついに’66・8にハノイハイフォンを爆撃し,ベトナムを焼き払おうとした。日本の総評は世界に先がけ,その10月21日にベトナム反戦ストライキを提起した。岡大もこのストライキを国民的包囲によって成功させようと,何年ぶりかの授業放棄闘争で闘った。これが大成功をおさめ450名のデモンストレイションをやり岡山市民にベトナム反戦をよびかけた。このために夏休み明けからほとんどのクラスにベトナム研究会が組織され,集会では20クラスが決議文を読み上げるといった盛り上りで,医進はこの集会の前に岡大で始めて学内学部デモをかちとった。佐藤政府はその後も益々アメリカのベトナム侵略に加担し,高度に発達した資本主義の国として世界で唯一の参戦国として自己の利益を追求しはじめた。

11・8エンプラ闘争<1,68・1‐18>

 佐藤政府によるベトナム参戦国化と沖縄返還を媒介としての自衛隊の核武装化への策略は,一度はことわった核空母エンタープライズの佐世保寄港承認によって具体化された。それまでに蓄積されたベトナム反戦の運動と被爆体験による反核のエネルギーは,このエンプラ阻止闘争に於いて開花した。岡大においても,羽田闘争以来停滞していた学生運動は冬休み明けてすぐ,各クラスはほとんど討論をつみ重ね,1月17日の7年振りの自治連による全学学生大会を開かせ750名の結集をかちとり,そこで1月18日の授業放棄を確認し,ついに1月18日には授業放棄が完全に成功したのである。1‐18においては午前中の授業は,ほとんどクラス討論を決行し,学部集会,学部デモ(法経,文,医)を行ない,昼からの総決起集会には,法文大講堂に入りきれんばかりにし,800名以上による市内大デモンストレイションによって核空母佐世保寄港阻止を市民によびかけ,県民集会に合流したのであった。これは,'60安保以来の高揚で,日韓闘争以来きずいてきた新らたな自治会連動の成果であった。全国的には分裂していても,岡大に於いては統一した運動が行なわれていることが大きな意味を持ったのである。

試験中の自治連公認可闘争<1968・2・20>

 1961年に結成され,岡大の学生運動の中心である自治会に対し,学生部は様々な口実をつけて7年間に至って届出を受理しようとしなかった。そして自治連のBoxとりこわしにからんで自治連は公認化闘争に立った。いやしくも学生が団体を作って,届出をしたものをトヤカク言うこと自体おかしいのであるが,学生部は許可制の手つづきをとろうとして7年間非公認しつづけた。再々団交を求めたが受け入れられなかったが2月18日ついに学生部長を説得し,始めて自治連の公認化について団交を行なった。しかし当の厚生補導委員会内部白体意志統一されないまま学生との団交に臨んだため,意志統一されている学生側に返答できず,団交は徹夜となり,ついに厚生補導委員会は総辞職してしまった。交渉相手を失った学生側は学長に会いに学長室へ行ったが,学長は姿を見せなかったため,そのまま学長室を占拠した。そして2月22日になって教養部教官会議から,問題となっている49条を「継続審議にして公認化する」という調定案が出され,大学側も学生もこれを呑んでこの闘争は終った。7年間も未公認にしたままの学生部の態度はここで徹底的に糾弾されねばならない。この闘争の勝利はまさに,純粋に学生と教官による話し合いが確保され,学生部の文部官僚どもを排除したことである。

岡大闘争<1968・9・17〜1969・9・17>

<機動隊学内乱入,学友不当逮捕〉

 9月17日,「三野三軒屋弾薬庫撤去」闘争に弾圧をかけた国家権力は”大学の自治”を完全に無視し,大学構内である南北道路に「道路交通法」適用を理論的根拠として乱入し,不当にも学友2名を逮捕し去った。
 この国家権力の攻撃,弾圧に対し,9月18日から20日までの3日間,延べ1,200名の学友が結集して,不当逮捕抗議の学内集会,正門バリケード構築,岡山西署及び県に向けての市中抗議デモンストレーションを展開するとともに,18・19日の学長団交を通して大学当局の責任を追求した。両日の大衆団交で,赤木学長を中心とする大学当局は,
  1. 正門から西門までの南北道路は大学構内であるから道交法は適用されない。
  2. 道交法の適用されないところでの学友2名の逮捕は不当だから釈放を要求する。
  3. 機動隊の構内乱入は大学の自治を破壊するものである。
  4. 機動隊の構内乱入に対しては大学は抗議すると同時に,大学はあらゆる機構を駆使して,介入しないという確約をとるまで闘う。
 という四点を明らかにし,更に上記の確約を基調としているかの如くポーズをとった岡山大学声明を20日に,全社会的に発表した。しかし,この大学声明は,後の大学当局の対応で明らかになるように,不当逮捕抗議,県警謝罪要求を骨子としながらも,本質的には機動隊導入積極的に容認する極めて反動的,ギマン的なものであった。

<全学共闘会議結成−ストライキ突入>

 大学声明以来,停滞しほとんど取り組みのなかった運動が,逮捕された学友2名の内1名(八尾君)が12月25日,不当にも起訴されるという国家権力の再度の弾圧によって再燃し,不当起訴を許した大学当局の無責任さを追求することから闘争は始まった。1月20日,全学学生大会が召集され,710名の学友の結集をもって60年安保以来初めて大会が成立した。1・20学生大会は次のことを決議した。
  1. 5項目要求貫徹
    1. 9・17不当逮捕,12・25不当起訴白紙撤回,県警の謝罪要求
    2. 岡山西警察署長を職権乱用で告発せよ
    3. 厚生補導委員は自己批判し,辞任し,厚生補導委員会は解散せよ
    4. 学長は自己批判せよ
      1. 機動隊導入を容認した9・20学長声明の撤回と権力介入拒否宣言を
      2. 自治連公認化闘争の時のデマパンフ配布に関して
    5. 以上を大衆団交の場で確約せよ
  2. 全学共闘会議(中央闘争委員)結成を承認
  3. ストライキ権確立
 岡大闘争の性格を決定する,この5項目要求の発想は,そして全共闘運動は,(1)大学総体,従ってその上台として存在する「既存秩序」に敵対し,「平和と民主主義」なる統一的価値概念を自己止揚し,新たな統一的価値概念に基づく連動主体の内実の獲得,その過程を通じての現「秩序」に対する「対抗秩序」の創造,(2)自治会運動における権力集中の奪取を媒介として,誰もが参加し得る民主主義(直接民主主義)を追求する方向性で,具体的な課題として大衆運動の内実(-直接民主主義)を追求,形成していく闘いであったと言えるだろう。
 1月8日以来要求していた学長団交は,学長が病気という理由で,学部長団との団交に代わり,第一回目が1月23日に2,500名の学生,教官を結集して開かれた。当局は5項目要求に対して,西署長は告発しない。厚生補導委は解散しない,等の態度を明らかにして全共闘とは平行状態のまま終った。そして全共闘が要求した25日団交に当局が応じなかったため,全共闘は1,000名の総決起集会でスト権実施を宣言,27日,理,農,教育,法文,教養でストライキに突入した。しかし1月29日に3,000名を結集して開かれた第2回大衆団交で当局は大幅な譲歩を見せ,(1)検察庁に告訴取り下げの運動をする。(2)法廷闘争において可能な限り財政的,精神的援助をする。(3)八尾君を逮捕した機動隊長を告発する。(5)スト破りは行わない。を確約した。現在の大学では不可能な(1)(2)項を譲ってきたため,学生に当局に対する期待が生まれ,前途の安易さが一般化した。

<大学当局の反動化−封鎖・自主管理闘争>

 1月29日の団交により学生側は当局に期待をもって2月1日の団交に臨んだ。しかし2・1予備団交(3,000名)の段階で当局は,一切の幻想を打ち砕くかの如く学生に大打撃を加えたのである。すなわち1‐29団交確約事項に対し,(1)学長代理は全権委任だが,大学決定は各学部教授会の承認が必要である。従って今までの確約事項は最終的なものではない。(2)機動隊長の告発は無意味であり,反体制の立場に立つため好ましくない。(3)「スト破りをしない」は事務職員に関してだけである,という居直りを行い,今までの確約を部分的に破棄する強硬な態度に出てきた。
 二転三転する当局の態度,1・29確約の一方的破棄という当局の反動化によって,学生間に当局に対する信用が全く消え失せ,運動の新たな大衆的高揚期をむかえた。そして1日の夜,全共闘は教養新館をバリケードで封鎖し,岡大闘争の拠点とすることを確認した。バリケード封鎖は,一切の反転的イデオロギーを拒否する意思表明であり,外なる国家権力,内なる大学当局権力,反革命に対し,闘いの拠点を守りぬくという封鎖線としての意味を持つ。更に,国大協自主規制路線一「教授会の自治」という既成のブルジョア学問大系,現実の研究教育機能をマヒさせ,解体する中で,目的意識的に自主管理闘争を通じることによって新たな大学の秩序,規律を創造していくものである。それは学生を研究教育課程の白主管理という質まで向上させ,学生自身による研究教育秩序を創造していかねばならないのであり,まさに大学の解体と創造という二つの矛盾の側面を統一しているのが,バリケード封鎖一自主管理闘争であった。
 そして,連日1,000人規模での集会が続けられ,一日に十数種類ものビラが配られるなど,当局の無責任さを追求する全学的な闘いのエネルギーが獲得されていった。8日の工学部,11日の法文II部スト突入によって全学スト体制を確立し,大学当局の反動化に対圧しうる学生の闘う体制を組みつつあった。
 この様な全学的高揚に対し,大学当局は一方的な「おしらせ」を何回も出すことにより,全共闘一暴力学生と規定し,学生の分断工作をすすめ,かつ封鎖解除恫喝をしていた。そして「おしらせNo15」により,団交開催条件,1・29団交確約の一方的破棄の合理化,既成事実化を測ったのである。
 大学当局の収拾策動に対する全共闘の闘争は,法文新館をバリケード封鎖し,白主管理闘争に入った。しかし5項目要求貫徹闘争の中で自主管理闘争を思想的に位置づけるべき,学生における意識変革が勝ちとれず,岡大闘争をどのように発展させていくかといった視点からの討論,全共闘と一般学生の意思一致が完全でなく,組織的な闘争が取り組めなくなっていた。この時に登場したのが大学当局の最も反動的な見解を表わした赤木学長パンフレット(21日配布)であった。赤木パンフの要旨は次のとおり,
  1. 事件が紛糾した原因は,まず第一に大学側が確固たる信念に基いた一貫した方針に基いて処理に当らなかった点であり,第二に大衆団交が交渉方法として極めて不適当であった点である。
  2. 大学構内で警察当局が大学の了解なくして八尾君を逮捕したのは,大学の自治のたてまえから不当であり抗議するのは当然であるが,公的機関としての大学が事実の確証を待たずして起訴の撤回や県警の謝罪を要求することは社会の批判を免がれない。
  3. 西警察署長を告発したり,訴訟費用を国民の税金で負担するなどは常識上許されず,大学と警察の主張の是非は,公正なる裁判官の判断に待つのが法治国家のルールであり,大学の良識である。
  4. 私は大学の自治を守り,岡大を社会的非難から守るためには,大学として可能なものと不可能なものを明らかにし,可能なものに全力を尽すべきであり,全共闘の要求を全面的に受け容れられない。
  5. 学年末試験,入学試験を控え重要な時期にあるので,一刻も早く常態に復すことを望んでいる。
 1・29団交確約事項の一方的破棄の最後的確認,団交拒否,入試をテコとした「学内正常化−スト・封鎖解除」「民主化」ポーズによる分断工作等の赤木学長パンフの反動的まき返しによって,まさに赤木反動独占体制をしいたのであるが,全共闘は充分な抗議(粉砕)行動が組み得なかった。

<法文教官団交−入試阻止闘争>

 69年度入試を大学闘争の最中にむかえた大学当局は,試験を学外で機動隊に守らせて行なおうとした。これまでも,当局内部において考え方の違いはあった。たとえば,今までの責任を一切学部長団に負わせる赤木パンフに対して,法文・農・理の三学部教官会議から抗議声明が出された。しかし,これは発表の手続きなどを問題としたもので,教授会の自治の枠を出るものではなかった。それが闘う教官として登場したのは,2月28日から4日間にわたる文科闘争委,法経共闘会議と法文教官有志との団交であった。告発しようとしている機動隊に守られた入試の是非を徹底して追求した結果,法文教官27名の人試協力拒否宣言を勝ちとることができた。
 またそれとは別に教養部の萩原・坂本両教官も同様の宣言を発した。学生の側には入試強行阻止共閾が組織され,入試当日の3月3日から5日の3日間,入試阻止閾争を閾い抜いた。
 しかし,教官有志による入試協力拒否,入試強行阻止闘争も,大学当局の反動化の下での機動隊に守られた入試に反対するといった意識で闘われ,教育体系を再度分析する中で,入試制度のもっている意義,入試のもつ重要性をとらえきれず,また寝トライキ組の拡大という停滞期に位置したため,定着,全学化が出来なかった。
 このころ,参院予算委で,荒木文相は岡大闘争を直接取り上げ,(1)赤木パンフは妥当であり,今後その方向で解決すべきだ。(2)教官の入試協力拒否は教育者として値しない。という恫喝を加え,学長,学部長団は,合同委員会で最終決定した「おしらせNo.15」よりさらに後退した赤木反動パンフに沿って解決する,という態度を明らかにした。

<大学当局,学生を権力に売り渡す>

 機動隊に守られての入試を強行した大学当局は,新学期をひかえ,一挙に岡大闘争の圧殺を計らんとした。そして3月25日,大学当局は全共闘に対し,封鎖解除,賠償請求の恫喝をつきつけた。
 3月3l日,反動化しきった大学当局は,川代学生課長,坂手手教養部長代理への「暴行」をもって,学生10数人を県警西署に告発した。そもそも警察権力を告発すべき大学当局が,逆に学生を告発し,権力に売り渡す,というこの暴挙,自らの身を国家権力の庇護の下にゆだねた教職員の段落は,直接的には学生の闘争へのエネルギーを高め,深い意味では,学生と教官の信頼関係を失せ,大学の共同幻想−「大学自治」を完全に崩壊させるものであった。この事は正に「大学」の本質そのものの崩壊,再編を意味し,学生運動の大きな転機であった。

<学内機動隊導入,反動赤木学長退官>

 4月12日未明,現場検証の名目で,機動隊500が学内に導入された。午前3時頃から情報を聞きつけた200名の学友が続々と構内に結集し,東西道路をバリケード封鎖する。5時半すぎ,姿をあらわした機動隊は学友の「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールと激しい投石の中,30分ほどかかってバリケードを破壊し,学内に乱入した。キャンパスに集った600名の学友が抗議のデモ,すわり込み,投石を行って対抗したが,不当にも機動隊は全共閾議長小山君を初めとする3名の学友を逮捕し去り,学生に無差別的に警棒を下し,多くの学友にケガを負わせて,学生会館,学生部,法文新館,教養部に乱入し,8時半すぎまで強制捜査が行れた。午前9時から全共闘は学館前にて川代学生課長の責任追及集会を大衆的に行った。この中で学生課長は告発文書にある「暴行行為」がなかった事を認めた。この集会に対し大学当局は機動隊導入を要請,午前11時頃450の機動隊が学内に再度乱入し,学友に襲いかかり,学館前を完全に「占拠」したが,学友300名の激しい投石の中を正午すぎ退散した。この後学友はただちに正門前バリケードを再構築した。
 一方,この日の闘いは反革命軍団−機動隊員有本の死をもたらした。権力,大学当局は警官一名の死を最大限利用して,全共闘圧殺=岡大の圧殺をもくろんだ。
 4・l2以後,全共闘に対し「暴力学生,殺人者集団」のキャンペーンが大々的にはられ,当局は「全共闘は暴力集団」として一切話し合いに応ぜず,逃亡を続ける。学生の中には有本の死に一定の動揺はあったものの,全体的に再度の機動隊導入を許さない声が高まる。
 4月l9日,教養部萩原教官声明「既成の大学共同体につながる職務形態を一切拒否,知識の大衆管理化を要求」4月20日,同坂本教官声明「教養部教官会議が自己批判しない限り,会議出席を拒否」が出される。
 この頃から大学当局は一方的全学集会を画策する。これに対し医・法文・教養教官有志8名が執行部の自己批判,辞任を要求し,全学集会拒否の声明を出し,全共闘,ノンセクト連合も実力粉砕に向けての闘いを構築していく。4月26日には全学集会粉砕総決起集会が克ち取られた。
 4月27日正午頃,全学集会の会場である岡大附小・中前に結集した学友l00名は教職員の検問を突破して会場に突入し,演壇を占拠して学長弾劾集会を開いた。午後2時頃には学友,教職員の数は4,000名に達し,全共闘は,右翼と一体となった民青の闘争妨害をはねのけ,ついに4時l5分,閉会宣言を勝ち取り,全学集会は流れた。
 全学集会策動を徹底的に粉砕された赤木は全学ロックアウト,という強行路線による岡大闘争の全面的破壊,「正常化」を行うとしたが,さすがに評議会を通らず,孤立し切って退官−逃亡を表明する。これに代って登場したのが「話し合い路線」をかかげつつ,機動隊導入をくり返す谷口学長代行である。

<岡山「110番」大学>

 5月6日,日帝佐藤は,70年安保を乗り切り,人民の革命的闘争を圧殺せんと,その闘いの砦である大学に対し,閉校,廃学処分を含む「大学緊急立法」を国会に上程した。
 この大管法恫喝の中,谷口体制の下,右翼と一体となった民青,秩序派による封鎖解除,スト破壊という反革命闘争圧殺と全共闘との激しい闘いが展開される。
 5月12日,大学当局は大衆団交を拒否。全共闘はこれに対し理学部をバリケード封鎖する。一方この間教養,法文のバリケード破壊が右翼民青によって強行される。その後,法文バリケード再構築。理解部封鎖解除,と革命と反革命との混乱が続く。5月15日,当局は5・12理学部封鎖に関して,氏名不詳の約100名を告発する。
 一方5月14日,工学部,5月19日,農学部で右翼民青秩序派「確認書」をもってスト解除を強行する。逆に5月22日理学部学生大会では理闘委の戦闘的学友の下,ストライキ強化決議を可決する。
 5月26日,当局の工,教養授業再開策動に対し坂本教官「現段階での正常化拒否」声明を出す。
 5月28日午前5時10分,4・12事件,5・12事件の現場検証を口実に機動隊1,200が再び学内に導入され,法文のバリケードを破壊し,封鎖解除を強行,学友を正門からつき出してロックアウトした。午前10時,機動隊が引き上げた後,”退去命令”を無視して学友20名が法文に入ると,教職員が外からカギをかけて,掃除をしていた女子学生2名を含む8名を閉じこめ,さらに機動隊を再導入して,8名を不当逮捕した。正午過ぎから法文前で,学友300名が,教官30名に対し,抗議糾弾集会を開いたが,杉学部長は逃亡し去った。
 5月29日好並教官,坂本教官,機動隊導入に抗議して理学部前に坐り込む。
 6月10日,自衛隊弾薬輸送車,1年ぶりに南北道路を通過する。これに対し,6月15日,樺美智子追悼集会の後,全共闘が南北道路を再度バリケード封鎖する。
 6月18日午後2時頃,教職員,民青が現われ南北道路バリケード破壊を開始する。まず理学部生を中心とする50名の学友が坐り込み,続いて全共闘の学友も坐り込んで抗議する。3時頃機動隊500が導入され,教職員,民青と共に,坐り込んだ学友に暴行を加えつつバリケード破壊を強行する。4時半頃,「全員逮捕」の恫喝を粉砕して600名の学友が機動隊を県宮グランドまで迫い返した。夕方300名の学友が結集して民青に対する弾劾集会が開かれ,バリケード破壊に奔放し,学友に対する暴行を追求,民青の自己批判を勝ち取った。
 同日学生寮に私服警官官5人が無断侵入し,寮内を捜索した。これに対し19日,20日延べ16時間にわたる学生部団交が行れ,学生部長自身が西著に対する”抗議文””申し入れ書”を出す事が確約された。相つぐ機動隊導入,日帝の「大学立法」策動によって再び全学の闘うエネルギーは高揚し,一方で右翼民青秩序派のスト解除,「確認書」路線の破綻が明確になっていった。
 6月28日農学部,7月2日工学部で再度ストライキに突入,7月6日には新設の薬学科もストライキに突入し大学立法粉砕に決起した。また6月30日500名,7月12日300名の結集をもって立法粉砕集会,市中デモが貫徹される。

<機動隊常駐下の授業強行再開>

 8月初旬,大学当局は「5項目要求」を歪曲,凍結させた欺瞞的「岡大改革案」を発表する。
 8月3日,日帝−自民党は大学立法を参院で強行採決するという暴挙に出た。全国の大学をはじめとする戦線で反撃の炎が燃え上がるが,反革命−機動隊の圧倒的な物量と残虐なるテロル,そして大学立法の”廃学”すら含む恫喝にふるえ上った大学当局によって全国の学園闘争は一切未解決のまま「収拾」されていった。
 9月10日,学長谷口は”「大管法」の適用をうけないための自主的な授業再開を”と「授業強行再開」を通告して来る。そして9月15日医学部封鎖解除を機動隊800と教職員の動員で行う。同日,右翼民青らによって開かれた法経学生大会で「スト解除」が決議された。
 9月16日,機動隊700のとりまくサッカー場での新入生オリエンテーションが強行され,一切の表現行為を禁止する告示を出し,そして機動隊常駐下で授業が再開された。
 百余名の逮捕者,一警官の死と数多くの負傷者を出して一年間にわたって闘われた岡大闘争は,こうして「敗北」を余儀なくされ,大学の自治,共同体は国家権力のなかに全崩壊した。学生と教官の間の信頼関係は基本的に失われ,単位という強いられたつながりだけが残ったのである。

11月安保決戦,糟谷君虐殺される<1969・11・13>

 11月13日,佐藤訪米阻止闘争を大阪の地に於いて闘った岡大学友,法科2年生糟谷孝幸君は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され,21才の短い生涯を閉じた。
 日米会談のため訪米しようとする佐藤首相を実力で阻止し,安保粉砕の展望を獲得せんとした11月安保決戦は治安対策を前面に押し出し全警察力を全国に配置した日帝ブルジョアジーとの問に,文字通り決戦として,数千の逮捕者を出しながらも死力を尽して闘われた。13日,大阪に於いては「佐藤訪米実力阻止・11月決戦勝利全関西労学市民総決起集会」が北区扇町公園で開かれ,午後6時過ぎデモに移ったが,6時半頃寝屋川署の機動隊員がデモの最前線に立ち闘っていた糟谷君に襲いかかり,暴行を加えながら逮捕した。そして負傷している糟谷君を曽根崎署に連行し,取り調べを強行し,治療もせずに2時間以上も放置していた。糟谷君は取り調べ後,気分が悪くなり倒れた。午後8時45分に北区浮田町の行岡病院に運び込まれたが,糟谷君は手術台の上に放置され,簡単な応急処置がなされているだけであった。しかも午前4時半までレントゲン撮影すら行れず,14日未明になってようやく,しかも完全な設備のないこの病院で,脳外科の門外漢の手で手術が行れた。午前6時半頃,京大病院脳外科の佐藤医師が援助を申し出たが,病院は全くとりあっていない。午後1時頃糟谷君の容態は悪化し,自力で呼吸することすらできない危篤状態に陥いり,そして午後9時,糟谷君は一言もしやべらぬまま死亡したのである。弁護士,佐藤医師の立ち合いのもとで行れた司法解剖の結果,死因は脳機能障害,脳挫傷,脳種脹,頭部打撲であり,遺体の情況は硬い鈍体による打撲跡が十数カ所にあり,頭骸骨の縫合部にズレが生じている事が判明した。
 この明確なる機動隊の虐殺に対し,警察側は路上衝突説,火炎ビン説,鉄パイプ説等で殺人事件としてデッチ上げ,60年安保の樺さん,66年羽田での山崎君虐殺と同じく自らの犯罪をインペイしようとしている。15日280名,16日200名をもって岡山で,19日1,500名で大阪で虐殺弾劾,安保粉砕集会が開かれた。そして30日には350名の学友,労働者,高校生が参加して,大学当局の会場使用拒否,不退去罪警告を粉砕して法文20番教室に於いて人民葬が行れ,安保決戦での糟谷君の死の重みを受けつぎ,更なる闘いを進める決意が述べられた。

教官処分粉砕闘争<1970・3〜8>

 69年9月17日,機動隊常駐下で授業再開を強行した大学学長谷口は,70年3月になって岡大「正常化」の最後的証しとして,岡大闘争を闘って来た教養部の萩原勝教官,坂本守信教官へ,5カ月間の停職処分−造反教官パージ攻撃をかけてきた。3月12日,評議会は学長谷口の申し出を受け,両教官に対する5力月間停職という厳しい懲戒処分を審議することを決定し,14日,両教官に対し審査説明書を手渡した。これに対し,全共闘は「大衆的闘争の高揚の勢いで処分を爆砕しよう」と呼びかけ,11月以来停滞していた岡大学生運動は,6月安保決戦をもひかえ,全学的に再燃していく。
 大学当局は,両教官からの処分審査説明書に対する求釈明に一切応ぜず,4月11日,ホテルニューオカヤマの一室にて坂本教官の口頭陳述を強行し,陳述の公開を求める坂本教官の発言を無視し,一方的に陳述を打ち切った。また萩原教官に対しては口頭陳述の前提として出した求釈明書に対する回答を拒否し,口頭陳述を打ち切ったのである。そして4月22日,大学当局は両教官に対する5カ月問停職処分の「発令」を発表した。
 これに対し,両教官は5月16日,人事院に不服申し立ての提訴を行い,反撃を開始する。一方各クラス・ゼミ,寮等が続々と「安保粉砕,教官パージ反対」をスローガンにストに突入,6月19日全学学生大会が成立し,全共闘の提起した5日間の全学ストライキを圧倒的多数の賛成で可決,突入した。
 8月22日から28日の5日間,岡山市内で両教官の人事院審査が,岡大の好並教官,淡路教官,東大の折原浩教官,神戸大の松下昇教官ら全国から約150名の代理人を結集して開かれ,処分の法的根拠が不明である点,「陳述」の機会すら与えられずに処分が強行された二点を中心に処分の不当を主張したが,大学当局はこれらに一切答えないまま,28日に代理人の一人が水を飲んでいた事を「理由」に人事院は審査を打ち切った。

寮闘争の高揚<1970〜>

 岡大闘争の高揚の中で,69年,内部よりその日「共」−民青支配を打ち破った北津寮はその後の岡大「正常化]の下,クラス・自治会運動が一定停滞を余儀なくされていくのに対し,逆に戦闘的主体として,自主管理,自主運営を貫徹し,中教審路線粉砕,無条件新寮建設を闘って行く。
 70年5月30日には,女子寮,青桐寮(養護教諭養成所女子寮)生を含む寮生200名の事務局包囲の中,学長団交を貫徹し,新寮敷地確保の確約を勝ち取り,同年12月には負担区分の一部不払い闘争を展開して,寮食堂炊婦に関する援助金を獲得した。
 この寮闘争の爆発的高揚に恐れをなした大学当局は,以後団交から逃亡し続ける。
 71年6月15日,岡大構内である南北道路で「沖縄返環協定調印阻止,樺美智子迫悼デモ」を行っていたデモ隊に「市民」の乗用車が突っ込み,これに抗議した岡山寮連委員長らに対し,警察権力は再び「道交法違反」をもって不当逮捕,起訴の攻撃をかけてきた。
 72年7月7日,片山学生部長と北津寮,女子寮の団交に大学当局は機動隊150を導入,これを寮生,学友がデモにより学外へ迫い出す。これを機に,寮戦線が結成され,学費闘争,教養部自治会建設等に取りくむ。
 73年1月18日より三軒屋弾薬庫解体連続闘争を開始し,4月9日には授業料3倍化に対し,教務窓口封鎖による学費徴収実力阻止を貫徹する。5月8日からは坂本教官処分粉砕闘争を教養部バリ封で展開する。
 74年になって大学当局と寮との交渉が進展。6月5日の学生部団交では「炊公化に努力,負担区分の一部解消」の確約を勝ち取り,12月より「新寮に関する寮規約(寮案)」を以って,具体的に新寮建設の交渉を開始した。

坂本処分粉砕闘争<1973・5〜7>

 72年前期,教養の坂本教官の英語評価「オール80点・優」(69年以降続けられていた)が「片山恵子」名義で郵送されたが,教養部教官会議はこれを保留し,最終的には他の英語教官による再テストで成績を採点するに至った。これは坂本教官の提起してきた,教官の「単位認定権」の問題をめぐる大学当局としての回答であった。すなわち,坂本教官の処分を意味していた。5月8日,坂本教官「懲戒処分」通告。以降,教養103教室,ついで教養部バリストに突入。当局は,団交要求を無視して暴力職員を動員して学生に暴行を加える。寮戦線を中心とした学生は実力でこれを撃退。5月12日機動隊導入−5名を不当逮捕。再びその後バリ封鎖。当局側は,教養部の授業を各学部に分散して行うと共に,学生の9項目要求書を無視,力による「正常化」をひたすらねらう。6月29日,7月6日,機動隊導入,学生不当逮捕。当局側の処分攻撃,力による「正常化」
 この闘争の中で,「大学の自治」なるものが存在しないことが,あらためて暴露されると共に,現在の大学を支えている「単位制度」への鋭い告発がなされていった。教官の「単位認定権」と,それによる教官=学生の歪められた構図,さらに「単位」とは何か。今も捉え返されるべき問題であろう

「マル青同」寮襲撃 大沢真君虐殺 <1975・5・25>

<「マル青同」岡大に登場>

 4月16日,軍服軍靴姿で岡大に登場した「マル青同(マルクス主義青年同盟)」は,教養部,学館,さらには講義中の教室に入って来ての情宣活動を行い,抗議する者に暴行を働いた。同時に寮では寮運営委員を中心に,“オルグ”という名の恫喝が始められた。
 彼らの“オルグ”とは「『マル青同』の指示に従うのか,従わないのか,そのどちらかであってそれ以外はない」「プロレタリア独裁の路線を持てないものは挙国一致体制に組み込まれる。だから我々は我々以外の一切を許さない」「マルクスの言った事がマルクス主義ではない。『マル青同』が言う事がマルクス主義である」「自己欲求はだれでも持っているが,それをだれが統制するかが問題である。『マル青同』の統制下に入れ」などと暴言をはき,ナイフをちらつかせてカンパを強要するものであった。「マル青同」は北津寮の寮闘争への方針をなんら提示せず,寮闘争を「小ブルジョア反革命分子のやる経済主義闘争」と独断し,自称「革命」党の名の下に寮闘争に真っ向うから敵対してきたのである。
 しかしこの様な恫喝に一切屈する事なく,自主管理,自主運宮を守る寮生の前に完全に孤立した彼らは,そのファシストとしての本性を露骨に現わし,一挙に白色テロルによる寮支配を行うとした。
 5月22日,彼らは,外出中の一寮生の部屋から勝手に荷物を放り出し,“拠点”として使おうとした。この自主管理,自主運営破壊の暴挙に対し,その夜寮生集会(のちに大会)がもたれ,寮生全員の意志一致のもと,実力で部屋を元にもどした。
 5月23日,この事をもって「マル青同」は十数人で押しかけ,建物内を走り巡り,ドアやガラスを破り,居あわせた寮生を無差別に鉄パイプや丸太で殴り,数人の寮生にケガを負わせた。この日の襲撃に寮生は不安を感じ,レポを出すなど自衛体制に入った。
 5月24日,「マル青同」は寮委員長K君を名ざしで「小ブル反革命分子」となじり,「断固たるプロ独の鉄槌で対処する」とK君に対するテロルをにおわすビラを出す。

<寮生への無差別テロ・リンチ,大沢真君虐殺>

 5月25日午後3時50分,全員軍服姿の「マル青同」30数名が寮の出入口を全て固め,寮生に対する無差別テロ,リンチを開始した。「マル青同」は寮生を拘束し,運営委員や命令に従わない者など約20人を鉄パイプで殴り,食堂前に拉致した。ここで全員に鉄パイプ,カシの木,軍靴などで殴るけるのリンチが長時間にわたって行れた。特に委員長K君には頭を集中して乱打するなど,言語を絶するリンチがかけられた。
 「マル青同」は,とりわけK君に自己批判を要求し,断固としてそれを拒否すると,さらに数人がかりですさまじいリンチを加えた(大沢君の遺体が埋められていた穴が襲撃の数日前に掘られていた事,後に逮捕された「マル青同」が「Kを殺せなかったのは失敗だった」と言っている事から,この日の襲撃,リンチは明らかにK君の殺害を目的としていた)。他の寮生にも自己批判を要求したが,全員拒否し抜いた。
 夕方5時頃,救急車のサイレンをパトカーと誤認し,「マル青同」はいったん学外に逃走した。
 寮生は医師を呼び,ケガ人に治療をしてもらったが,医師はこの場では手の施し様がなく,動かす事も出来ず,入院の必要がある事を告げた。一方食堂にほぼ全寮生が集合して抗議集会を開き,約70名が学内デモに出発した。
 6時15分頃,「マル青同」は再度北津寮への襲撃を開始し,ケガ人,救護の寮生,医師約20名が再び拉致され,ケガ人と寮生に対し再びリンチが行われた。特にK君に対しては医師が「死んでしまう」と止めるのを無視し,さらに凄絶なリンチが加えられた。この間「マル青同」は全私室を捜索し,個人の私物を略奪,廃棄している。
 他方寮外に出ていたデモ隊は「マル青同」再襲撃の報に急遽女子寮に結集した後,教養部東南側で隊列を整えたが,人質の安否を気づかい,その場で寮を望んで待機していた。
 夜8時10分頃,「マル青同」は教養部東南デモ隊への攻撃を行うため,宣伝カーを先頭にゆっくりと接近し始めた。突如,幹部の大型マイクでの「殺せ!」「ひき殺せ!」という絶叫と共に全速で車を突っ込ませた。彼らは終始「殺せ!殺せ!」と絶叫し,教養キャンパスを逃げまどう寮生を猛スピードで追いかけ回し,数名の寮生は何メートルも車にはね飛ばされている。さらに車につづいて鉄パイプをふりかざした部隊が寮生に殴りかかった。
 数十分に及ぶ虐殺行為の中で,理学部化学科1年生の大沢真君が宣伝カーにひき殺され,ほとんどの寮生が重軽傷を負った。「マル青同」は大沢君の遺骸を車に積み,8時半頃学外に立ち去った。
 このファシストの史上類を見ない殺人を目的とした虐殺行為は大沢真君の名前と共に,5月25日というその日付によって何人も忘れ去る事ができないであろう。社会主義の仮面をかぶった「マル青同」のおぞましい所業は,天人共に許さぬものとして,日本学生運動の歴史に刻みつけられるであろう。

<「内ゲバ」キャンペーン,廃寮攻撃の嵐に抗して>

 5月26日,機動隊が導入されて「現場検証」が行れ,警察は「マル青同」の一方的寮襲撃を「内ゲバ」であると断定した。さらに警察権力に呼応して日「共」−民青も「『マル青同』と一部寮生の“内ゲバ”である」とウソデマをとばした。一方26日の夕方になっても大沢君が行方不明である事が判明し,27,28日と必死の捜索が続く。
 29日朝,玉柏の山中に大沢君らしき死体が発見される。多くの寮生,学友,御家族が「大沢君ではない」事を願っている時,まだ大沢君と確認される前に日「共」−民青は悪らつにも「大沢君追悼集会」を開き,学友の激しい糾弾をかう。
 しかし,その遺体は大沢真君であった。顔はメチャクチャにつぶされ,全裸体で冷たい土の中に埋められていた。深い悲しみと激しい怒りに包まれて,寮内で通夜が営まれた。
 30日,寮内において,大沢君の御家族の手に抱きかかえられた遺骨を迎え,しめやかに寮葬が行れた。一方警察,日「共」−民青の一体となった「内ゲバ」キャンペーン,廃寮攻撃は熾烈なものであった。警察は「事情聴取」に名を借りて寮生の親元にまで恫喝をかけ,寮闘争をひぼうし,退寮策動を行った。また大学当局はフェンス,サーチライトの設置等,寮の防衛体制構築に全く消極的であった。日「共」−民青は問題の本質を一切抜きにした「内ゲバ反対」「暴力一掃」キャンペーンを張り,さらには「寮の体質が『マル青同』を呼んだ」とまさに大沢君の死を冒涜する廃寮攻撃をかけて来た。そして寮からの公開討論の要望には一切逃げ巡り,自らの勢力拡大,党利党略に奔走する。
 内部に多くの負傷者をかかえ,四方八方からの敵の廃寮攻撃を乗り越え,さらには再襲撃対する24時間レポ体制を維持し,北津寮生は多くの学友と共に寮を守り抜いた。
 6月14日,午後2時より学館大ホールに寮生,学友,教官,そして全国の闘う学友,労働者人民の結集をもって「故大沢真君迫悼,『マル青同』弾劾 人民葬」が行われ,全国に「マル青同」弾劾し,寮闘争を勝利し抜く事,それこそが大沢君迫悼の道である事を宣言した
 6月17日,大学当局に導かれ,機動隊が寮に乱入,「現場検証」を行う。機動隊は抗議した寮生(5・25のケガ人)に暴行を働き,ケガを負わせる。という暴挙をなした。
 「マル青同」は5・25以後,逮捕,段落が相次ぎ,現在では全国で2,30人が情宣活動を行っているのみである。しかし,彼らを全国から放逐し抜くと共に,岡大の闘う部分から一定「マル青同」に加って行った部分が存在した事を厳しく総括しなければ,第2,第3の「マル青同」が登場しない,とは言いきれないであろう。

趙得勲君スパイデッチ上げ事件<1975・12・12>

 75年の11月からKCIAは在日韓国人留学生,青年13名を含む21名の学生,青年らを「反共法」「国家保安法」違反をデッチ上げ,「北」のスパイとして不当逮捕した。この中に岡大工学部電子工学科を春に卒業した趙得勲(チョ・トウックン)君が含まれていることが判明した。日本で生まれ育った「在日」の歴史の中で,差別に苦しめられ,奪われ続けてきた韓国人としての自己を取り戻すため,さらには,身につけた技術を祖国の発展のために役立てるため留学した趙君は,「北」の脅威を口実に国内の民主化運動を弾圧し,自己保身を続ける朴独裁政権の維持の為,スパイとしてデッチ上げられ,拷問による「自白」を根拠に無実の罪を負わされたのである。
 「被疑事実」のデタラメさには唖然とさせられる。たとえば友人とのつき合いが「包摂工作」,市販されている地図や雑誌を買った事が「国家機密収集」とされ,又実在しない「白鶴」という岡大周辺の喫茶店で「反国家団体員」と会ったとか,東京に「梅田駅」があったり,数えきれないウソデタラメが起訴状に並んでいる。
 しかも,岡大祭に「北朝鮮を賛美する展示を出した」などのわい曲を含め,岡大在学中の行動がチェックされている。これはKCIAと一体になった勝共−原理研のスパイ活動の「成果」を示すものである。
 事件判明後,直ちに工学部の浜田,橋本教授や法文の好並助教授らが中心となって,学友,教職員約300名の署名と共に,宮沢外務大臣に事実確認を求める嘆願書を提出し,さらに「岡大趙得勲君を救う会」が作られ,全国の「11・22救援会」と共に巾広い救援活動を開始した。
 しかし趙君は一切の面会も許されない状況の中,事実審理も全く行なわれないスピード裁判で,76年6月8日,ソウル地方法院で懲役10年,同年10月25日ソウル高等法院で懲役7年という重刑判決を不当にもかけられた。今後,獄中での彼の闘いを支え,趙君自身の救援と同時に,他の17名の救援会と共に,4名の死刑判決者に対する死刑阻止の闘いを全国的に盛り上げ,日帝ブルジョアジー,それと一体となった在日KCIAを糾弾し,彼らの暗躍を許さない闘いを推し進めていかなければならない。

農薬空中散布阻止闘争<1976〜1978>

 この数年前より西日本を中心に全国的に「松枯れ」現象が発生していた。常緑樹である松が,次々と赤茶色に枯れていくという,全国的に大問題となっている。農薬産業住友化学と一体となった国・林野庁は,その原因をマツクイムシおよびマツノザイセン虫にあるとして,全国的に補助金を出して,ヘリコプターによる山林への大量農薬空中散布を推進してきた。とりわけ'77年には「松くい虫防除特別措置法」を国会で成立させ「法」でもって反対意見を抹殺し,農薬空中散布=生物皆殺し作戦を強硬に推進されてきた。なお,この法律成立の為に林野庁が国会に提出したデータの大半がデッチ上げ資料であることが発覚し,大問題となったことは記憶に新しい。
 岡山大学でもこれと前後して,農学部附属半田山演習林の「松枯れ対策」と称して,殺虫剤スミチオン(住友化学製)による空中散布を行うことが明らかにされた。このことに疑問を持つ学生・教官を中心に'76年4月,「農薬空中散布を阻止する会」(準)が結成され,反対運動が開始された。「阻止する会」は,全国の反公害住民団体と連絡をとると共に,(1)松枯れの根本原因は大気汚染である,(2)スミチオンは人体に有害である,(3)スミチオンは生態系を破壊する…等を数々の具体的資料をもって掲げ,農学部当局に中止を要求していったが,当局は一切答えることなく5月23日,第1回目のヘリコプターによる農薬空中散布を強行した。当日,当局は教職員を動員して演習林前にピケを張り,抗議にかけつけた教官・学生数十名に対し罵声を浴びせるのみならず,山中に実力入林した学生数名の頭上に直接農薬の雨を降らせるという暴挙を行った。後日,大学当局は”お知らせ”で「林中の学生は避けて散布した。付近民家への薬の飛散はなかった」などとデマを流したが,阻止する会の写真で偽りが暴露されていった。更に6月の第2回目散布を前に阻止する会は,「スミチオンの安全性が確認されるまで,空中散布を中止する」旨要求の署名活動を展開し,2百余の付近住民の署名を集め,大学当局につきつけていったが,岡大農学部はそれら一切を無視して再強行したのである。
 更に,77年には,千葉県で,有機リン農薬の空中散布で農民が死亡する事故があり,阻止する会を中心に農学部演習林長=島村と団交を行い,中止の確約書を勝ち取ったが,当局はその約束をホゴにして空中散布を強行した。78年も,阻止する会・北津寮の中止要請を黙殺して,大量の農薬空中散布を強行した。この間,阻止する会を中心に,情宣活動,住民団体の署名活動,ヘリポートとして使用された自衛隊三軒屋基地への農薬搬入阻止闘争などが闘われた。
 この3年間にわたる農薬空中散布阻止闘争の過程で改めて浮き彫りとなったのは,大学側の一貫した住民無視・学生無視の姿勢である。そしてまた,中央政府の命令を全く官僚的に遂行し,反対意見を抹殺していく姿勢である。更に,農薬空中散布が,住友化学のスミチオンを,大学当局が依頼して,自衛隊基地をヘリポートとして使用されて強行されたことからも判るように,企業−自衛隊−大学ぐるみの,すなわち「産軍学共同路線」が着実に強化されていることを露呈した。この岡大のような「学問の自由」に名を借りて,生態系全滅・人体への危害・公害のインペイを黙認していく大学のあり方は厳しく糾弾されなければならない。三年問の散布阻止の闘いは多くの課題を残している。

反動教官目瀬による退寮策動糾弾闘争<1977・4〜12>

 農学部農学科助教授目瀬は4月8日,学部オリエンテーションの後で特別に北津寮,女子寮の新入生4名を呼び出し,大学当局が今まで新寮建設闘争を始めとする寮闘争に対してとってきた様々な反動的対応を一切隠しつつ,寮に対する誹謗中傷を加え,自ら下宿までさがして3名の寮生を退寮させた。この事件を知った寮生が4月12日農学部に目瀬を訪ね,事実確認を求めると,目瀬は「今,教授会をやっているので断って来る」と言って,そのまま会議場に逃げ込み,夕方,寮生を暴力的に排除する職員・教官に守られて会議場から脱出,逃走した。この目瀬,農学部当局一体となった暴挙に対し,直ちに学友は糾弾の闘いを開始した。しかし目瀬は事実確認を要求する学友に対し居直りと逃亡をくり返し話し合いの場すら設定しようとしなかった。
 4月27日には学館前にて北津寮主催の「目瀬糾弾全学集会」が寮生,学友,高校生100余名の結集で開かれ,学内デモを貫徹し,農学部に怒りのシュプレヒコールをたたきつけた。目瀬に対する糾弾はその後同年暮れまで続いたが,彼はついに「自ら寮生を呼んだ」のか「寮生が自分で寮を出たい」と言って来たのか,という最低限の事実すら明らかにせず,またこの退寮策動が目瀬個人の独断によるものではなく,そのバックにある教授,当局一体となった退寮策動,廃寮攻撃に対し充分な反撃が出来ないまま目瀬の「病気」により一応収束していった。

4・20通達−5・1学長告示糾弾闘争<1978・5>

 3・30開港策動を粉砕され,国内的にも国際的にもその威信をボロボロにされた日帝福田は,5・20開港に向けて徹底した治安弾圧をもって望んだ。そして全国の国公私立大学に対し,掲示,表現の自由,というブルジョア的権利すら無視する,学生弾圧強化指示の文部次官通達を4月20日発した。なかでも,管制塔占拠戦士を含む5名もの学友,元学友の逮捕者を出し,当局の人間が文部省に出向いて「陳謝」した我が岡大に於いては,権力に完全に屈服した形で,ごていねいにこの4・20通達とほぼ同内容の学長告示を5月1日付けで出した。この恥知らずな学長告示の全文は以下の通り。
告示

 去る3月26日,本学学生及び元学生が新東京国際空港における不法行為により逮捕,起訴された。大学はかねてから不法行為を禁止してきたにもかかわらず,このような事態が発生したことは誠に遺憾である。今後,目的のいかんを問わず,かかる不法行為を行わないように重ねて厳重に注意する。なお,学内においては,犯罪行為をそそのかし,あるいは社会的秩序の暴力による破壊を呼びかけるような掲示物は厳に慎しまれたい。

昭和53年5月1日岡山大学長小坂淳夫

 中教審路線にのっとり,学生の管理強化をもくろみ,「不法行為」の名の下に「物言う学生」を封じ込めようとずる4・20通達−5・1学長告示に対し,直ちに学友,教官から抗議がたたきつけられた。
 学内各所に貼られた告示は怒りを込めて破り捨てられ,5月2日に出された学長告示を掲げた「おしらせMb84」数千枚は,学友によって回収され,三里塚空港をつぶせ/岡大の会の抗議文が裏に刷られて配布された。さらに北津寮,医学部学生会,新聞会等が抗議のビラや記事を出し,管制塔占拠戦士の元岡大学友成田2161号は獄中アピールを送った。
 教官をも含む全学的な告示抗議の声の前に,大学当局は立て看,ビラ,ステッカー等全ての掲示物に目をつぶる事しか出来なかった(新年よりステッカーを朝までにはがす様になった学館を別にして)また,一時はつき返された逮捕学友の休学届も,先進的な教官の努力により,受理が貫徹されたのである。

廃寮攻撃粉砕闘争<1980〜>

<男女子寮廃寮決議>

 岡大の新寮問題は76年1月に反動4条件が出されたために交渉が進展しなくなり,以後大学側も具体的な動きを見せないままほぼ膠着状態となっていた。ところが80年に入り,一挙に廃寮攻撃が現実化してきた。
 まず80年3月10日,11日の学生部長交渉で当局は突然「負担区分問題」なるものを出してきた。これは79年度の,寮の水光熱費一部大学側負担や寮食堂への公務員炊婦配置が「国庫超過負担」にあたると会計検査院から指摘された,だから寮生は負担分約960万円を支払うかさもなければ2・18付負担区分通達を受け入れよ,というものであった。しかしこれらの大学側負担はその項目や割合について寮生と当局が交渉によって合意,確約してさたものであり,大学当局がみずから2・18付負担区分通達は不当であると認めていたのである。
 北津寮・女子寮はこれに対し超過負担の支払いも負担区分通達の導入も認めないという態度をとった。すると大学当局はこれまでの「新寮問題は寮生との合意なしには着手しない」という確約をも破って一方的に男女子寮の廃寮を決定したのである。
 80年5月28日,この日午後より事務局で開かれるはずだった定例評議会(岡大の最高決定機関)は抗議する寮生,学生の前から逃亡し,長堀学生部長ら数人を事務局に残したまま学外の,岡山ロイヤルホテルの一室で秘かに行われ,男女子寮廃寮を決めた。6月3日の学生部長交渉ではじめてこの事実が明らかにされ,寮生が学長,評議会が学生と交渉するよう求めたが学生部長はこれに応じず,居直ったまま7時間後,夜10時にドクターストップで退室するまで議論は平行線をたどった。そして6月の定例評議会では文部省に新女子寮建設の概算請求を行うことを決定した。

<公安刑事が北津寮生にスパイを強要>

 こうした中,5月17日には岡山県警の公安刑事が寮内に侵入し寮生にスパイ活動を強要するという事件が起きた。この男は木名を西卓史といい,70年の大学闘争ごろから一貫して学生運動を弾圧してきたのであるが,79年ごろより氏名・職業を偽って北津寮生A君に接近,酒を飲みに連れて行ったりアルバイトを紹介したりしていた。そしてこの日,西は酔っぱらってA君の部屋を訪れ,酒を飲んで世間話をしていたが,深夜,突然「オレは公安刑事だ。お前はオレのために寮内の情報を集めてくれないか」と正体を表した。A君がこれを即座に拒否し,さらに他の寮生に伝えたため西はあわてて,クツもはかずに寮外へと逃げ出した。北津寮は記者者会見を行って西の恥ずべき行為を社会的に明らかにするとともに大学当局に対してもこれまで公安刑事の学内での活動を容認していたことを糾弾した。

<学長直訴事件>

 6月3日に長堀学生部長が入院して以来,大学側は寮生との交渉に応じなくなった。そこで7月2日朝,出勤してきた公用車を事務局前で寮生が止め,中の小坂学長に寮生と直接話し合うよう申し込んだ。しかし学長はこれに一切答えることなく沈黙したまま車内に閉じ込もった。寮生がなおも学長に交渉設定を求めていると大学職員が大挙駆け付け,寮生を排除しようとした。彼らは車の前に寮生がいるにもかかわらず「弾き殺せ!」などと叫んで車を前進させたり,寮生に殴るける,カサで突くなどの暴行を加え,中にはメガネを割られたりケガをするものもいた。そしてわざわざ車をバス通りにまで進めて交通に大混乱を与え,さらには県警機動隊に出動を要請し正門前に待機させたのである。
 一方女子寮はこの間「新女子概算請求の白紙撤回」を決議し,7月からまず女子寮単独で,11月からは男女子寮合同で「廃寮決議白紙撤回,学長団交要求全学全国署名」に取り組み,1600名の賛同者を得た。しかし大学当間はこれをも全く無視し切ったのである。

<「新女子寮」強行着工阻止>

 81年3月に入り大学当局は新女子寮建設の青写真を女子寮委員会に示し,建設を宣言した。これをうけて女子寮はこれまでの概算請求白紙撤回から新女子寮建設については一応合意し,その上で(1)集会室の獲得(2)入退寮権の獲得(3)管理運宮権の獲得,を最低合意条件とする方向へ運動を転換した。そしてこれらを骨子とする緊急賛同署名を行い,4月中に1800名の賛同を得た。また北津寮も女子寮の要求実現運動を援助することにした。
 その結果,集会室などは獲得したものの,最大の争点となった管理運営権,とりわけ入退寮権については大学側がその保障を確認せず,合意なき着工を宣言した。
 7月,北津寮・女子寮生を中心に「反動4条件付新女子寮強行着工阻止全学共闘会議(阻止共闘)」が結成される。
 8月,強行着工にそなえ工事予定地入□にバリケードを作る。
 9月3日学生部より「明朝着工」の連絡
 9月4日早朝から予定地入口(青桐寮門)に阻止共闘の学生が結集。何事も起こらず,学生部職員が「きょうはやらないらしい」と発言。10時過ぎに数人を残して学生がいったん引き上げたところトラックに乗り込んで大学職員200人が到着。バリケード撤去にかかる。その間に農学部の方から工事業者が入ってて来て予定地周辺にサク(鉄条網)を作りはじめる。急を聞いて学生も大勢駆け付け,座り込んでサクづくりを阻止。夕方までこぜり合いが続き,業者はサクを一部残して引き上げる。その夜ゲリラが出没して鉄条網をズタズタに寸断。
 9月5日この日は大学職員は姿を見せず,業者と学生を対決させようとした。そのため学生30人が事務局学長室に突入したが学長は不在で,排除しようとする職員の暴行をうける。
 9月8日朝のうちにバリケードが撤去されていたのを発見。阻止共闘はありあわせの材科を使ってバリケードを作り直す。午後1時,大学側職員200人と警官100人が同時に到着。10数名しか残っていなかった学生を取り囲んでまず職員がバリケードを撤去,そしてなおもスクラムを組む学生に対し今度は警官隊が前面に出て来て逮捕恫喝を加え,やむなく学生は農学部側から寮に引き上げる。学生が引き上げるとユンボが青桐寮の門柱を撤去した。いったん北津寮にもどって態勢を整え,人数を増やした阻止共闘は再び青桐寮前にもどって抗議行動を行う。その夜阻止共闘はマクラ木,丸太などを使って強固なバリケードを作り直した。
 9月9日この日よりバリケードを24時間体制で防衛,いったんクイ打ち機など大型資材をトレーラーにつんで業者が表れるがバリケードを見て引き上げる。
 9月11日学館前で全学集会,男女子寮生6人が72時間のハンガーストライキに突入。
 9月28日学生部長交渉で本田学生部長は入退寮権について,入寮選考を学生部・寮相方が行う事を確認した。
 10月4日厚生課長交渉で以下の事が確認された。
  1. 82年度入寮願書は学生部厚生課寮務係あてとするが一切開封せずに女子寮に渡す。
  2. 人寮選考は女子寮運宮委員会が行う。選考方式は育英会式と面接接による。
  3. 人寮希望者の経済状況のコビーを学生部に提出。ただし名前と住所はふせる。
  4. 入寮者名簿を学生部に提出する,途中人寮は1.2.3.4.を適用する。退寮者は女子寮運営委員会の承認を得,退寮届を学生部へ提出する。
  5. 最短修業年限を越えて在寮を希望する者は,女子寮運営委員会の承認を得,在寮更新届を学生部に提出する。
 これによって女子寮が新女子寮着工に合意したため,その夜阻止共闘はバリケードを自主撤去,翌日より工事再開となって,82年3月に完成した。
 このバリケードによって実力で強行着工を阻止しつつ大学当局と交渉を重ねることによって入退寮権をはじめ管理運宮権を寮生が獲得した阻止共闘と女子寮の闘いは反動4条件の一画を崩したものとして全国的にもかなりの注目を浴びた。

<北津寮の入寮募集停止攻撃>

 女子寮が新寮になった以上,新男子寮の建設は時間の問題であったのだが,それは私たちの予想をはるかに超えて早く,そして強権的に具体化してきた。
 82年10月13日,学生部長交渉の場で田中学生部長は突然「新女子寮なみの条件で新寮建設に合意するかさもなければ廃寮か」の二者択一を寮生に迫った。これは80年の男女子寮廃寮決議以後,大学側が男子寮の新寮問題について具体的に言及した最初の発言であった。
 10月28日,学生部長交渉,ここで「さもなければ廃寮か」の内容が「来年度から入寮募集停止の可能性がある」ということを明らかにした。
 11月11日学生部長交渉,条件付き新寮の建設に反対する寮生側と条件付き新寮か廃寮のどちらかしか有り得ないとする当局側の主張は平行線のまま6時間後にドクターストップがかかって交渉は打ち切り,田中学生部長は「入院」してしまい,以後一度も交渉に応じていない。
 11月24日午後2時からの予定を4時間も早めて午前中に秘かに評議会が行われ次の2項目を決定した。
 1.昭和58年度以降の現男子寮の人寮募集を停止する。
 現男子寮の入寮募集停止は昭和58年4月から昭和61年3月まで(3年間)とする。その後,現男子寮は取壊し,新規格寮を建設する。
 2.昭和58年4月以降,現男子寮の炊婦の配置換を行なう。
 これはすなわち,今年の4月から北津寮に新入生を入れなくし,現在寮にいるほとんどの学生が卒業する3年後に寮をつぶすということ,それと寮食堂停止するということなのだ。
 また12月4日に北津寮が寮生大会を開いて条件付き新寮の建設を受け入れ,その後新寮内で条件撤廃の運動を行うという方針の変更を行ったのに対して,大学当局は「今後一切条件に反対しないという合意書を出さなければダメだ」と交渉にも応じようとしなかった。
 これに対して学内の各所から決議撤回を求める運動が起こってきた。女子寮・共済会学生委員会,社会科学研究部,新聞会,理学部植物生理学研究室,医学部学IIクラスなどから続々と11・24決議白紙撤回,当局が寮生との交渉せよ,という決議があがった。そして1月28日には学友会が幹事会において全サークル数82のうち賛成75という圧倒的多数でもって白紙撤回・団交実現要求決議をあげた。
 それとともに北津寮は2月3日に教養部ストライキを行うことを提起し,約10日間で522人の賛同署名を得ることができた。結局教養部生の過半数に達しなかったため2月3日は授業ボイコットの意味を込めて教養104教室で「教養部生総決起集会」を行い,クラス有志決議をあげて参加した法科31組生をはじめ120人が結集した。
 この間大学当局は「学生募集要項」や「告示」などで何んら正当な理由を示すことなく入寮募集停止のPRと寮生による自主募集禁止の攻撃をかけてきた。そして3月15日付けの合格発表文書に「入寮したものには必要な処置を取る」などという全くもって許しがたい恫喝文書を同封して合格者に送り付け,自主募集を妨害してきた。しかしこのような攻撃,恫喝にもめげず,人数こそ少ないが北津寮は新入寮生を獲得し,反撃に打って出ようとしている。4月中旬へ〜5月には教養部ストライキの実現を目ざしており,今後,学内各団体,学生・教職員とともに11・24決議を撤回させ,大学の管理体制を粉砕する闘いを展開していくことが望まれる


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